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望月 忠蔵|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052089 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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望月 忠蔵
もちづき ちゅうぞう

廃仏毀釈に抵抗、満願寺を守る。三枚橋にて製糸工場経営。

生年月日 1826年(文政9)
没年月日 1895年(明治28)3月21日
関連地域 穂高(白金)
職業・肩書 越庄屋・寺社研究者・製糸工場経営
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

穂高白金に生れました。高島章貞門下俊秀の一人で、明治初年に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が巻き起こるなか、満願寺の価値を力説して、伽藍全部はもちろん、什器(じゅうき)宝物に至るまで保存しました。生糸製造にも着眼し、1878年(明治11)には穂高三枚橋に株式会社穂高製産社を創立、2年後の1880年(明治13)には、総坪数1,200坪、女子工員150名収容の製糸工場が竣工、開業しました。同じ年に、明治天皇が御巡幸され、天蚕製の蚊帳を天覧に供し、御買上げになりました。その後、穂高神社の研究に没頭し、穂高神社の昇格運動を起こし、郡内有志を募り、宮内卿伊藤博文に昇格の請願書を提出しましたが実現できませんでした。1895年(明治28)3月21日に亡くなりました。

略歴譜

1826年(文政9) 0歳 穂高白金に生れる。
西穂高村牧で越庄屋を勤める。
明治初年   廃仏毀釈の嵐が巻き起こるなか、満願寺の価値を力説、保存した。
1878年(明治11)   穂高三枚橋に株式会社穂高製産社を創立。
1880年(明治13)   総坪数1,200坪、女子工員150名収容の製糸工場が竣工、開業する。
1880年(明治13)   明治天皇御巡幸の際、天蚕製の蚊帳を天覧に供し、御買上げになる。
1883年(明治16)   糸価の大暴落に遭遇し、政府に資金借入を嘆願したが許可を得られず、事業中止となる。
  穂高神社の研究に没頭し、穂高神社の昇格運動を行う。
1885年(明治18)   郡内有志を募り、伊藤博文に昇格の請願書を提出したが実現できず。(1940年(昭和15)に、昇格が実現)
1895年(明治28)3月21日   亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館

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