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明治時代/篠ノ井線の開通|安曇野市ゆかりの先人たち

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

廃線ウォーキング

今「廃線ウォーキング」で人気の路線跡

鉄道時代の躍進による文化の発展

「光は東から」-安曇野では太陽や月は東の筑摩山地から昇ります。同じように文明も東からやってきました。 たとえば、江戸時代、信濃の幹線道路は筑摩山地の間を南北に通過する善光寺街道で、芭蕉などもここを歩いておりました。明治になり、新宿中村屋を開いた相馬黒光(良)が穂高の愛蔵の元へ嫁いできた1897年(明治30年)、上田から馬で保福寺峠を越えて安曇野へ入ってきました。
すでに上野からの信越線は開通していて、その前年の29年からの篠ノ井線工事が北から始まっていたのですが、まだ中信地方にまでは伸びてはいなかったのです。
34年の秋、穂高生活を切り上げて逃げるように上京した黒光は、西条まで伸びてきていた篠ノ井線で汽車で安曇野を離れました。

5年間の期間をかけて35年、長野-松本間が開通しました。
この開通で一躍脚光を浴びるようになったのが明科でした。このとき活躍した人物に倉科多策がおります。彼は明科駅や国営明科製材所、県営水産指導所を誘致するほか、いろんな面でこの地の活性化に尽力しました。若者に「無から有を生み出す闘志を持たねばならぬ」と教えたといいますが、まさに彼の業績体験から言えた言葉でした。
開通を記念して『篠ノ井線鉄道旅行案内』という冊子が発行されています。これを見ると、松本平の名所が広く紹介されていて、この地方最初の鉄道に寄せる期待のほどがわかります。
ところが、この時の汽車賃は長野-松本間が1等で1円16銭、2等66銭、現在の価格に換算してみると1万1,600円、6,600円という高額。また所要時間は2時間以上もかかり、たとえば朝5時40分に長野を出発した汽車は松本に8時12分に到着するという遅さ。時速にして30キロにもなりません。1日に午前2本、午後2本の4本しかなく、1本遅れると3時間も待たねばならぬという不便さでした。しかし、この鉄道が産業・文化・暮らしに与えた影響は計り知れないものがありました。

明科が安曇野市に入り、篠ノ井線明科駅は市の東の玄関として重要になりつつあります。この動きに呼応するかのごとく1988年(昭和63)、高速化により無くなった「廃線敷ウォーク」が人気を博しつつあるようです。
竜門寺境内にある鉄道工事犠牲者の碑、明科公民館前庭にあるC56型蒸気機関車と共に大事な文化財として守って行きたいものです。