木村 殖|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052095 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
木村 殖
木村 殖
きむら しげる
山岳遭難救助功労者。
生年月日 | 1905年(明治38) |
---|---|
没年月日 | 1974年(昭和49)12月 |
関連地域 | 堀金(田多井) |
職業・肩書 | 山岳遭難救助功労者 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 社会(社会事業) |
経歴
堀金田多井に生れました。1927年(昭和2)に外交官になろうと決心し、普通文官の受験勉強のため、父が管理人をしていた上高地の温泉ホテルに入りました。内野常次郎に狩猟の指導を受けながら、勉強に取り組みましたが、次第に山の魅力に取り付かれ、入山2年目には、父に代って、冬小屋に閉じこもるようになりました。1931年(昭和6)に庄吉小屋に住み、1933年(昭和8)には帝国ホテルへ移り、裏に木村小屋を建て、大学の山岳部の世話をしながら、戦前・戦後にかけて多くの遭難救助に貢献しました。県遭難対策協議会北アルプス南部救助部長を務め、戦前・戦後にかけて通算1,400から1,500件の遭難を扱いました。1969年(昭和44)、自伝『上高地の大将』を実業之日本社から発刊しました。
略歴譜
1905年(明治38) | 0歳 | 堀金田多井に生れる。 |
---|---|---|
三田・烏川村立夜間補修学校に入る。 | ||
1927年(昭和2) | 外交官になろうと決心し、普通文官の受験勉強のため、父が管理人をしていた上高地の温泉ホテルに入る。 | |
内野常次郎に狩猟の指導を受けながら、勉強に取り組むが、次第に山の魅力に取り付かれる。 | ||
入山2年目には、父に代って、冬小屋に閉じこもるようになる。 | ||
1931年(昭和6) | 庄吉小屋に住む。 | |
1933年(昭和8) | 帝国ホテルへ移り、裏に木村小屋を建て、大学の山岳部の世話をしながら、戦前・戦後にかけて多くの遭難救助に貢献する。 | |
戦前・戦後にかけて通算1,400から1,500件の遭難を扱い、「ヒゲの殖さん」として親しまれる。 | ||
県遭難対策協議会北アルプス南部救助部長を務め、警察庁長官協力賞・信毎文化賞を受賞する。 | ||
上高地に入って以来40数年間、上高地の主として過す。 | ||
1969年(昭和44) | 自伝『上高地の大将』を実業之日本社から発刊する。 | |
1974年(昭和49)12月 | 69歳 | 亡くなる。 |
参考文献
堀金村誌 | 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 | 安曇野市立図書館 |
---|