矢野口 保邦|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052098 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
矢野口 保邦
矢野口 保邦
やのくち やすくに
岡村阜一と『残月集』編纂。歌人。
生年月日 | 1863年(文久3) |
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没年月日 | 1906年(明治39)8月27日 |
関連地域 | 穂高(有明。東筑摩郡麻績村出身。) |
職業・肩書 | 歌人 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 文化(文芸) |
経歴
東筑摩郡麻績村に生れました。穂高有明の矢野口家の養子となりました。保邦は雅名、本名は三郎といいました。また、小松園・常盤園とも称しました。臼井里翁に就いて和漢の学を修め、長じて橘道守の門に入り、歌道を究めました。国家朗詠の古式を冷泉流の宗師冷泉為紀について学び、初めて信州に伝えました。和歌と書道を最も得意とし、遠近からその教えを受ける者が多く訪れました。佐々木了綱の組織した「竹壺社」の社長を務め、同社のために尽しました。また、『残月集』・『信濃名所和歌集』の編纂(へんさん)も行いました。1906年(明治39)8月27日に病気のため、43歳で亡くなりました。
略歴譜
1863年(文久3) | 0歳 | 麻績村に生れる。 |
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穂高有明の矢野口家の養子となる。保邦は雅名、本名は三郎。小松園・常盤園とも称す。 | ||
臼井里翁に就いて和漢の学を修め、長じて橘道守の門に入り、歌道を究める。 | ||
国家朗詠の古式を冷泉流の宗師冷泉為紀に就いて学び、初めて信州に伝える。 | ||
和歌と書道を最も得意とし、遠近から多くの人が訪れる。 | ||
佐々木了綱の組織した「竹壺社」の社長を務める。 | ||
1906年(明治39)8月27日 | 43歳 | 20歳代からの病気により亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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