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第11回文書館講座「『暗黒日記』を読み解く」

記事ID:0075834 更新日:2021年4月7日更新 印刷ページ表示

 安曇野市北穂高に生まれ、戦前・戦中に活躍したジャーナリスト清澤冽が昭和17年(1942年)から亡くなる昭和20年(1945年)まで、戦況や自らの思いを綴った『暗黒(戦争)日記』を読み解きます。

戦争日記 自筆 ←暗黒(戦争)日記

 1 日   時  令和3年5月23日日曜日 13時30分から15時まで

 2 場   所  安曇野市堀金公民館 講堂

 3 講   師  上條 宏之 氏  信州大学名誉教授、長野県短期大学名誉教授

 4 講演内容 

 当日の参加者は33名でした。上條先生からは以下のようなお話を伺うことができました。

 

 『暗黒日記』は清澤洌が戦時下に「戦争日記」と題して書いた日記である。清澤が生まれた年である、1890年は明治国家体制が固まった時代であった。現在の安曇野市北穂高に生まれた清澤は、井口喜源治の研成義塾で学び、16歳の時にアメリカに渡り、苦学しながらハイスクールで学び、その後ジャーナリスト関係の仕事に就いた。帰国したのは、28歳である。

 1941年12月8日の真珠湾攻撃を契機に太平洋戦争が始まった。清澤は、その一年後の1942年12月9日に『暗黒日記』を書き始める。

 清澤は戦争が起きると全否定に走る国民性を嘆き、理性的に事実に基づいて正確なアメリカの現状を認識をすることが重要であると指摘していた。

 清澤は、戦争をなくすには外交というものが非常に重要であると考えていた。日本の最大の不自由は、国際問題において相手の立場を説明することができないことにある。清澤は、日本外交の基本的な構造的な欠陥を指摘していた。

 終戦前の5月に清澤は亡くなってしまったが、戦後清澤が生きていたらどうなっていただろうかと研究者たちは盛んに憶測している。

 

○参加者の声(アンケート)

 ・『暗黒日記』をこれから読んでみたいと思いますが、読む上でのポイントをまとめての内容であり、参考となります。

 ・『暗黒日記』の名称の背景や民衆との接点についてよく理解できた。

 

 講演の様子は、文書館でDVDで視聴できます。講演録は、令和4年3月刊行の安曇野市文書館紀要第3号に掲載されます。

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