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大正時代/大正デモクラシー|安曇野市ゆかりの先人たち

記事ID:0051984 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

大正デモクラシー

鐘の鳴る丘集会所

安曇野市有明にある大正デモクラシーの面影を残す「鐘の鳴る丘集会所」

信州から全国、世界へと羽ばたく安曇野人たち

第一次世界大戦が勃発したのは1914年(大正3)。約5年間続いた戦いはヨーロッパが主戦場でしたが、ドイツやオーストリアなどからなる同盟国に対し、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国の陣営に、日本を含めイタリア・アメリカも参戦しました。

そして戦後の復興と好景気に後押しされるように庶民の暮らし、特に女性の意識と生活が変わりました。
中等教育が全体に大きく普及し、特に高等女学校への進学が急激に伸びて大衆化したのです。1918年(大正7)には東京女子大が設立されます。まだ安曇野から入学する女性はなかったものの、ここでは学習意欲に満ちて歴史を開いた1人の女性を紹介します。

穂高の出身である等々力いくは、日本で4人目の「ナイチンゲール章」を、万国赤十字社から贈られた女性です。日本赤十字社長野支部に入社し、東京本社に転勤した後は看護婦長となり、日本代表として万国赤十字看護婦会議にも出席します。秀でた看護の精神を持ち、東宮妃など皇族の看護役にも選ばれました。63歳で故郷・安曇野に戻るまで実践女学校で講師を務め、安曇野の女性の職業意識にも大きな影響を与えました。
このように大正という時代は、明治時代では考えられなかった個人の生き方がたくさん現れてきたのです。
新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻や研成義塾を経営した井口喜源治の思想から影響を受けた人もいます。斉藤茂(堀金出身)は研成義塾で学び、生涯農業に従事しながらもドイツ語を勉強して翻訳家としても活躍。雑誌『山上』を発刊して“野の哲人”と呼ばれた人です。地方ジャーナリストとして“血涙”の号を持つ会田貢は、地方雑誌「信濃不二」を1911年(明治44)から太平洋戦争後の1951年(昭和26)まで、実に40余年の長きに渡り発刊し続けました。

白沢保美(三郷出身)は、林学博士として日本の林学会に貢献しました。さらに「日本産婦人学会の育ての親」と評される白木正博(三郷出身)がいます。
青柳栄司(堀金出身)は、わが国の電気工学界の泰斗と言わしめた工学博士で、家庭生活の電気化に大きく貢献。「拾ケ堰」(じっかせぎ)の梓川横断に現在のサイフォン式を実現させた、ひらめきの達人です。
また青柳さだ(堀金出身)という女性は上京し、明治末の本郷湯島に大衆サービス旅館「信濃館」を、関東大震災後にも上野の駅前に「ふじ屋旅館」を繁盛させた経営者として知られています。

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