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播隆|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052029 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新

播 隆の写真

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播隆
ばんりゅう

1828年(文政11)、槍ヶ岳を開山した。

生年月日 1786年(天明6)
没年月日 1840年(天保11)10月21日
関連地域 その他(越中。三郷小倉の中田又重の案内で槍ヶ岳に入山。)
職業・肩書 僧侶
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 文化(宗教)

経歴

天明6(1786)年、越中国新川郡河内村(富山市河内)の中村佐右衛門(順信)の二男一女の二男に生まれる。大和・近江・山城・尾張・飛騨・信濃を遍歴し修行を重ねた。文化11(1814)年、播隆29歳の時に正式な僧となった(浄土宗)。飛騨「杓子の岩屋」で修業中、文政6(1823)年、笠ヶ岳の再興を成す。西に聳える槍ヶ岳を来迎の地と定め、小倉村(安曇野市三郷小倉)から槍ヶ岳開山を志す。文政9(1826)年、道案内の農夫中田又重(小倉村)と共に初登頂をした。文政11(1828)年、山頂に三尊を安置し、開山を成した。その後「善の綱」を架け、庶民が登れる槍ヶ岳とした。天保11(1840)年、松本から一心寺(信者より寄進された播隆唯一の寺)に帰る途中、中仙道太田宿で亡くなった(行年55歳)。

略歴譜

 
1786年(天明6) 越中国新川郡河内村(富山市河内)の中村佐右衛門(順信)の二男一女の二男に生まれる。
1804年(文化元) 尾張国浄土宗尋盛寺の性誉上人に弟子入り。
1821年(文政4) 飛騨「杓子の岩屋」で修業。
1823年(文政6) 笠ヶ岳再興。「迦多賀嶽再興記」を書く。
1824年(文政7) 信者、村人と笠ヶ岳登山。登山道に石仏安置、山頂に阿弥陀仏安置。
御来迎を拝す。母死去。
1825年(文政8) 「念仏起請文」「濃州一宮南宮奥院山籠記」を書く。
伊吹山で修業。
1826年(文政9) 「不動和讃」「念仏行道議章」を書く。
信濃国安曇郡長尾組小倉村の中田又重を訪ね、第1回槍ヶ岳登山。(初登頂)
1828年(文政11) 2回目槍ヶ岳登山、山頂に三尊を安置し、槍ヶ岳開山する。
穂高岳に六字名号碑安置。
1830年(天保元) 一心寺(岐阜県揖斐川町)が建立される。
1831年(天保2) 生家川内道場再興許可される。
1833年(天保4) 3回目槍ヶ岳登山。信濃国玄向寺(松本市大村)で別時念仏。
1834年(天保5) 4回目槍ヶ岳登山。山頂に藁の「善の綱」架ける。槍ヶ岳開闢成す。
1835年(天保6) 5回目槍ヶ岳登山。※飛州新道開通
鍋冠山で凍傷、足指2本失う。
1836年(天保7) 信濃国松本新橋の大坂屋佐助により「信州槍嶽略縁起」配布。
鉄鎖の「善の綱」松本入りするが差し押さえられる。
1838年(天保9) 「川内道場再興由緒書」を書く。
1839年(天保10) 浄土律宗和上となる。
1840年(天保11) 松本に巡錫。玄向寺で病に伏す。
鉄鎖の「善の綱」取り付け許可される。
松本より中山道を美濃へ帰る途中、太田宿脇本陣林市左衛門宅で死去
(行年55歳 法名:暁道播隆大律師)

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市図書館
三郷村誌1 三郷村誌編纂会/編 安曇野市図書館
三郷村誌2 三郷村誌編纂会/編 安曇野市図書館
善の綱 三郷村教育委員会/編 安曇野市図書館

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