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安江 寮蔵|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052101 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

安江 寮蔵

やすえ りょうぞう

上鳥羽村で私塾経営。習字・算法・謡曲・礼儀作法・漢学に優れ、徳行を先にして実学に努めたため、門弟は千余人を数えた。

 

生年月日 1816年(文化13)
没年月日 1896年(明治29)
関連地域 豊科(上鳥羽)
職業・肩書 教育者
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 文化(教育)

経歴

松本藩士安江敬明の二男として、松本に生れました。名は寮蔵、号は敬中といいました。漢学を木沢天童に学び、書に通じ、幼少のころ神童といわれました。1840年(天保11)、成相組上鳥羽村の要請により、同村に定住し、習字・算法・謡曲・礼儀作法及び漢学の教授を約30年にわたり行いました。徳行を先にして実学に努めたため、名声は近隣の村々に及び、門弟千余人を数えるに至りました。1856年(安政3)2月に、門弟一同によって上鳥羽諏訪神社前に碑が建てられました。明治に入ってからは、鳥羽学校の執事を数年間勤めました。1888年(明治21)には、更に寿碑が真々部正敬寺に建てられました。1896年(明治29)、豊科上鳥羽にて亡くなりました。

略歴譜

1816年(文化13) 0歳 松本藩士安江敬明の二男として、松本に生れる。名は寮蔵、号は敬中という。
    漢学を木沢天童に学び、書に通じ、幼少のころ神童といわれる。
1840年(天保11) 24歳 成相組上鳥羽村の要請により、同村に定住する。
    習字・算法・謡曲・礼儀作法、及び漢学の教授を約30年にわたり行う。
    徳行を先にして実学に努めたため、名声は近隣の村々に及び、門弟千余人を数えるに至る。
1856年(安政3)2月   門弟一同によって、上鳥羽諏訪神社前に碑が建てられる。
    鳥羽学校の執事を数年間勤める。
1888年(明治21)   寿碑が真々部正敬寺に建てられる。
1896年(明治29)   豊科上鳥羽にて亡くなる。

参考文献

豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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