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猿田 佐源次|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052117 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

猿田 佐源次

 さるた さげんじ

 組頭(くみがしら)。庄屋の猿田弥源次と共に、立田堰の水を分けて、田多井・柏原に至る堰開削に尽力する。

生年月日 江戸
没年月日 1837年(天保8)
関連地域 堀金(田多井)
職業・肩書 組頭
活躍年 江戸時代以前
ゆかりの分野 経済(産業)

経歴

 庄屋の猿田弥源次と共に、立田堰の水を分けて、田多井村・柏原村に至る堰開削を計画しました。その堰筋は、立田堰から分れて上野の台地を通り、小倉開墾地の東の畑地を北西に向かい、田多井南端の二つ石から田多井へ落し、柏原に至るものでした。後に拾ヶ堰開削に尽力した柏原の庄屋中島輪兵衛を誘いましたが、奈良井川の豊富な水を柏原に持ってくる方が有利であることを論じ、計画に加わりませんでした。1810年(文化7)、両名は意を決して、黒沢尻の長尾村外12か村入会の地から堰を開削することにし、藩の許可を得て、堰口と田多井の両方から堰を掘りましたが、用水は届きませんでした。完成には至りませんでしたが、郷土開発のために弥源次と共に、村の先頭に立って、この大工事に当りました。堰は、後年に堀廻堰となって実現しました。

略歴譜

江戸 0歳 堀金田多井に生れる。
    庄屋猿田弥源次と共に、立田堰の水を分けて、田多井・柏原に至る堰開削を計画する。
    堰筋は、立田堰から分岐れ上野の台地を通り、小倉開墾地の東から田多井南端の二つ石経由で柏原に至るものであった。
    後に拾ヶ堰開削に尽力した柏原の庄屋中島輪兵衛を誘うが、水が豊富な奈良井川利用が柏原に有利として加わらなかった。
1810年(文化7)   両名は意を決して、黒沢尻の長尾村外12か村入会の地から堰を開削することにする。
    藩の許可を得て、堰口と田多井の両方から堰を掘るが、用水は届かなかった。
    田多井字高林に、南方二つ石に向かって、幅約3m・高さ約1.5m程の堰の掘り跡、「弥源次掘」が約300mが残っていた。
    堰として完成には至らなかったが、郷土開発のために弥源次と共に、村の先頭に立って、工事に献身的な努力をする。
    後年、堀廻堰となって実現する。
1837年(天保8)   亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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