岡村 勘兵衛|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052127 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
岡村 勘兵衛
おかむら かんべい
拾ヶ堰の開削を行う。
生年月日 | 1778年(安永7) |
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没年月日 | 1868年(慶応4)2月27日前後 |
関連地域 | 豊科(吉野) |
職業・肩書 | 庄屋 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
豊科吉野の庄屋の家に生まれました。幼名は良茂。父親の跡を継いで庄屋となった勘兵衛は、吉野村以北・以南の村々は、灌漑(かんがい)の便に乏しく水田化が遅れていたため、奈良井川の水の利用を考えていました。1801年(享和元)に、保高村から来た白沢民右衛門・元右衛門と共に、奈良井川の取水による堰開削の相談をしました。そして、堰の開削方を検分し、水路の開削を願い出ましたが、藩は事業の容易でないことを察して、許可しませんでした。勘兵衛は、難題を越えるべく、同志と共にひそかに測量等の計画を立てました。1814年(文化11)、岡村勘兵衛・六郎右衛門・白沢民右衛門・中島輪兵衛・関与一右衛門の名義によって、内願書が差し出されました。工事は、1816年(文化13)2月から始められ、勘兵衛は、専ら工事人夫の割当とその賃金の調達と支払いを担当しました。経費が巨額になり、賃金の支払いに窮する中、それを乗り越えて、5月に見事に竣工しました。1868年(慶応4)2月、90歳で死去しました。
略歴譜
1778年(安永7) | 豊科吉野の庄屋の家に生まれる。 |
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1801年(享和1) | 保高村から来た白沢民右衛門・元右衛門と共に、奈良井川の取水による堰開削の相談をする。 堰の開削方を検分し、水路の開削を願い出たが、藩は事業の容易でないことを察して、許可をしない。 難題を越えるべく、同志と共にひそかに測量等の計画を立てる。 |
1814年(文化11) | 岡村勘兵衛・六郎右衛門・白沢民右衛門・中島輪兵衛・関与一右衛門の名義で、内願書を藩に差し出す。 |
1816年(文化13) | 開削は2月から始められ、勘兵衛は、専ら工事人夫の割当とその賃金の調達と支払いを担当する。5月に竣工する。 |
1816年(文化13) | 藩主から独御礼の重賞を受ける。 |
1868年(慶応4)2月27日前後 | 死去。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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穂高町誌第二巻 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |
堀金村誌上巻 | 堀金村誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |