岡村 千馬太|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052128 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
岡村 千馬太
おかむら ちまた
三宅雪嶺の「東西南北会」の信濃のリーダーとして、信濃教育の自由刷新の為に尽力。
生年月日 | 1875年(明治8) |
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没年月日 | 1936年(昭和11)6月15日 |
関連地域 | 三郷(中萱) |
職業・肩書 | 教育功労者 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 文化(教育) |
経歴
三郷中萱に生まれました。16歳で豊科の南安曇高等小学校を卒業して、松本の弁護士滝沢友江の書生となりました。1891年(明治24)上京し、小日向台町の尚志社に入って識見を広めました。1893年(明治26)、長野師範学校に入学し、浅岡校長の憂国の至誠に感化されました。千馬太の遠大な志を感じた担任の小平治先生から「知(二)時務(一)持(二)大節(一)則師道埃」の詩を贈られました。1897年(明治30)に師範学校を卒業して、東穂高小学校、その後東信・南信の学校を歴任した後、長野県視学等を務めました。同志と図って「東西南北会」の主唱者となり、天下の名士を招いて講演会を開き、教育者の進むべき道を談じました。南安曇教育会の初代会長を務めたほか、信濃教育会役員として互助会の設立に努め、教育会館の建設に尽力しました。1929年(昭和4)、東京都北多摩郡千歳村で、郷里の客を迎える施設を整備し、教育のあり方を世に訴えました。 ※詩の中の()内の漢字は、返り点です。
略歴譜
1875年(明治8) | 三郷中萱に生まれる。馬を愛した父秋太郎は「千馬太」と名づける。 |
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豊科の南安曇高等小学校を卒業、松本の弁護士滝沢友江の書生となる。 | |
1891年(明治24) | 上京し、小日向台町の尚志社に入って識見を広める。 |
1893年(明治26) | 長野師範学校に入学、浅岡校長の憂国の至誠に感化される。千馬太の遠大な志を感じた担任の小平先生から詩を贈られる。 |
1896年(明治29) | 東邦協会に入会し、帝国ホテルの総会に出席する。大隈外務大臣の演説に感銘し、対外認識の普及に目覚める。 |
1897年(明治30) | 師範学校を卒業して、東穂高小学校に勤め、その後東信・南信の学校を歴任する。同志と図って「東西南北会」の主唱者となり、活躍する。 |
1900年(明治33) | 伊那小学校在任中、「欅樹書院」で起居し、さまざまな職業の人たちと出会い、更に新しい見識を養う。 |
1921年(大正10) | 全県的な衆望を担って、長野県視学となる。 |
1921年(大正10)秋 | 更科郡長に任命されるが、終生教育者の信念を貫くため固辞する。 |
郡の教育会長に選出される。信濃教育会役員として互助会の設立に努め、教育会館の建設に尽力する。 | |
1929年(昭和4) | 梓小学校々長を退職し、東京都北多摩郡千歳村で、郷里の客を迎える施設を整備し、教育のあり方を世に訴える。 |
1936年(昭和11)6月15日 | 鎌倉で静養中に、病気のため死去。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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三郷村誌1 | 三郷村誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
写真:岡村千馬太先生 |