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岡村 阜一|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052129 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新

岡村 阜一

岡村 阜一写真

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 おかむら ふいち

 有明宮城に有明山神社里宮を増築。

生年月日 1839年(天保10)
没年月日 1913年(大正2)9月18日
関連地域 豊科(寺所)
職業・肩書 宣教師
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 文化(宗教)

経歴

  豊科寺所に生まれました。細萱伝平について朱子学・書と和歌を修めました。御嶽教の信者となり、御嶽山へ33回参拝に行きました。また、東北・中国・四国の各地方の霊地を訪れました。1878年(明治11)に有明山を信仰の山として御嶽山同様にしようと考え、3年間かけて巨額の私財を投じ、有明神社里宮を復興し、以後、その付随施設整備に一生を捧げました。1880年(明治13)には、御嶽教と同様に「有明講」を起こしました。1888年(明治21)に、有明神社里宮を増築、また、日夜有明講の伝導教化に務めました。講数800、講員3,200、信仰者3万520余戸、信徒10万人となり、地方宗教界の一王侯の観がありました。当代名流の人々を含めて1,200人に及ぶ有明神社献詠歌集『残月集』を取りまとめました。1913年(大正2)9月に、74歳で死去しました。

略歴譜

1839年(天保10) 豊科寺所に生まれる。幼名を菅治という。
  細萱伝平について朱子学・書と和歌を修める。
  御嶽教の信者となり、御嶽山へ33回参拝に行く。
  長兄より家を継ぐ。
  東北・中国・四国の各地方の霊地を訪れる。
1878年(明治11) 有明山を信仰の山として御嶽山同様にしようと考え、3年間かけて巨額の私財を投じ、有明神社里宮を復興する。
1880年(明治13) 御嶽教と同様に「有明講」を起す。
1888年(明治21) 有明神社里宮の増築が完成する。日夜伝導教化に務め、地方宗教界の一王侯の観があった。
1913年(大正2)9月18日 死去。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市図書館
豊科町誌 豊科町誌編纂会/編  

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