荻原 碌山|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052132 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
荻原 碌山
© 碌山美術館
おぎはら ろくざん
近代彫刻の先駆者。井口喜源治・相馬愛蔵・相馬黒光の影響を強く受ける。
生年月日 | 1879年(明治12)12月1日 |
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没年月日 | 1910年(明治43)4月22日 |
関連地域 | 穂高(矢原) |
職業・肩書 | 彫刻家 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
穂高矢原に生まれました。本名は荻原守衛といいました。1899年(明治32)に美術家を志して上京し、巣鴨の明治女学校の巌本善治を訪ね、画室「深山軒」を建てて住み、不同舎に通って絵を学びました。翌年に井口喜源治と共に内村鑑三の夏期講習会に出席しました。1901年(明治34)、意を決してニューヨークへ渡米し、フェアチャイルド家に住み込み働きながら美術学校に通い、洋画の研究を行いました。その後、二度にわたって、フランスのパリのアカデミー・ジュリアンに入学して、傑作「坑夫」等を制作しました。ロダンの「考える人」と出合ったり、西洋・エジプトの古代美術の研究をしたりしました。滞在中に日本の天平時代の仏像とエジプトの昔の彫刻に通ずることを発見し、帰国後、古美術を探りました。新宿角筈町にアトリエ「オブリビリオン」(忘却庵)を建てて住み、文展に「女」・「北条虎吉像」等多数の作品が入賞しました。
略歴譜
1879年(明治12)12月1日 | 穂高矢原に生まれる。本名は荻原守衛。 |
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1899年(明治32) | 美術家を志して上京し、巣鴨の明治女学校の巌本善治を訪ね、画室「深山軒」を建てて住む。不同舎で絵を学ぶ。 |
1900年(明治33) | 井口喜源治と共に内村鑑三の夏期講習会に出席する。終了後、富士登山を行う。 |
1901年(明治34) | 意を決してニューヨークへ渡米する。フェアチャイルド家の家僕となって働きながら美術学校に通い、洋画の研究を行う。 |
1903年(明治36) | ニューヨークからパリへ渡る。アカデミー・ジュリアンに通ってローランスに指導を受ける。 |
サロンでロダンの「考える人」を見て、身も魂もないほどに驚き恐れ、芸術の威厳にうたれて彫刻家になろうと決心する。 | |
パリに7か月滞在後、ニューヨークへ戻り、美術学校で石膏像の木炭写生や写生のもとになる解剖学を学び、彫刻の基礎を築く。 | |
1906年(明治39) | 再びパリに渡り、アカデミー・ジュリアンで彫刻に専念し、傑作「坑夫」を制作する等して、彫刻の競技会で5回連続入賞する。号を碌山と称する。西洋・エジプトの古代美術の研究をする。 |
1907年(明治40) | イギリスに渡り、ロンドンの大英博物館で古美術を見たり、高村光太郎を訪ねて画談等を行う。 |
西洋古美術の研究を行う。日本の天平時代の仏像とエジプトの昔の彫刻に通ずることを発見する。 | |
1908年(明治41) | 京都・奈良の古美術を探り、新宿角筈町にアトリエ「オブリビリオン」(忘却庵)を建てて住む。「文覚」が第二回文展に入賞する。 |
1910年(明治43)4月22日 | 絶作「女」が完成する。友人柳敬介の画室の建築を監督し落成した日、中村屋の一室で急病で倒れ、2日後に死去。 |
1958年(昭和33)4月 | 穂高等々力町に碌山美術館が開館する。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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穂高町誌 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |
碌山美術館公式ホームページ |