下里 伊右衛門|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052133 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
下里 伊右衛門
しもさと いえもん
明科七貴で庄屋を勤め、高瀬川や犀川の川除普請に尽力する。
生年月日 | 不詳 |
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没年月日 | 不詳 |
関連地域 | 明科(下押野) |
職業・肩書 | 庄屋 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
明科下押野に生まれました。庄屋を勤め、高瀬川や犀川の川除普請(かわよけふしん:堤防の建設)に尽力しました。寛政年間に、押野村と塔ノ原・明科村との犀川の普請争いをした時は、松本藩の郡手代横山熊右衛門を頼み、犀川へ68間の川除普請を行いました。しかし、塔ノ原・明科村では、本瀬が東側へ突き当るとして訴訟を起しました。押野村のために、いろいろと手を尽しましたが、押野村全体の協力が得られず、訴訟に負けて、普請は全部取り払うことになりました。普請の監督に当った横山熊右衛門は、責任を感じ松本へ帰り、切腹しました。伊右衛門は、「御一命をお捨てになられた御恩は、子孫まで決して忘れるではないぞ」と言って同志とはかり、犀川べりに横山様の社を建てて祀りました。
略歴譜
生年不詳 | 明科下押野に生まれる。 |
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庄屋を勤め、高瀬川や犀川の川除普請に尽力する。 | |
寛政年間 | 押野村と塔ノ原・明科村との犀川の普請争いで、松本藩の郡手代横山熊右衛門を頼み、犀川へ68間の川除普請をする。 |
塔ノ原・明科村では、本瀬が東側へ突き当るとして訴訟を起す。 | |
押野村のために、いろいろと手を尽したが、村全体の協力が得られず、訴訟に負けて普請は全部取り払うことになる。 | |
普請の監督に当った横山熊右衛門は、責任を感じ松本へ帰り、切腹する。 | |
「御一命をお捨てになられた御恩は、子孫まで決して忘れるではないぞ」と言って、同志と横山様の社を建てて祀る。 | |
没年不詳 |
参考文献
明科町史 | 明科町史編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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