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関 節義|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052143 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

関 節義

 せき のりよし

 中川手村助役を12年間勤め、村政に貢献、犀川漁業協同組合長等も歴任する。また、俳人としても優れ、「川手風流会」会長・「犀水会」の中心として、俳道の発展に努める。

生年月日 1880年(明治13)7月8日
没年月日 1966年(昭和41)8月22日
関連地域 明科(中川手)
職業・肩書 俳人
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(文芸)

経歴

 明科中川手に生れました。1924年(大正13)に中川手村の助役となり、1936年(昭和11)まで勤め、村政に貢献しました。この間、国有明科製材所跡地の村有払い下げ等に尽力し、犀川漁業協同組合長・中川手村氏子総代等も歴任しました。
節義は、早くから俳諧を学び、龍門軒吟水と号しました。1927年(昭和2)には、川手風流会の会長となりました。以来、京都花本十一世斤秋並びに秋邨その他宗匠を招いて指導を仰ぎ、川手の俳道の発展に努め、二十数人の会員の中より、5人の宗匠が誕生しました。戦後は、生坂出身の加藤犀水を招いて、犀水会の中心として活躍しました。龍門寺境内や城山下に句碑を建て、その後、明科ではこれにならい、各地に句碑・歌碑を建てるようになりました。川手風流会は、明科町文化協会として続きました。

略歴譜

1880年(明治13)7月8日 0歳 明科中川手に生れる。
1924年(大正13)   中川手村の助役として、1936年(昭和11)まで勤め、村政に貢献する。
    国有明科製材所跡地の村有払い下げ等に尽力し、犀川漁業協同組合長・中川手村氏子総代等も歴任する。
    早くから俳諧を学び、龍門軒吟水と号す。
1927年(昭和2)   川手風流会会長となる。以来、京都花本十一世斤秋・秋邨ほか宗匠を招いて指導を仰ぎ、川手の俳道の発展に努める。
    二十数人の会員の中より、5人の宗匠が誕生する。
    戦後は、生坂出身の加藤犀水を招いて、犀水会の中心として活躍する。
1951年(昭和26)   川手風流会で、龍門寺境内に、吟水、犀水、司松・小羊・超流の三句碑を建てる。
1954年(昭和29)   城山下の御膳水に、観光協会の協力を得て、自分の句碑を建てる。
    龍門寺の吟水の句碑は、「山水を集めてすずし龍門寺」、城山下に、「山吹や殿が茶に煮し柄杓井戸」がある。
    その後、明科ではこれにならい、各地に句碑・歌碑を建てるようになる。川手風流会は、明科町文化協会として続く。
1966年(昭和41)8月22日 86歳 亡くなる。

参考文献

明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館

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