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丸山 貫長|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0051995 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

丸山 貫長

 まるやま かんちょう

 廃寺となった満願寺の再興に尽した名僧。

生年月日 1843年(天保14)
没年月日 1927年(昭和2)6月7日
関連地域 豊科(熊倉)
職業・肩書 住職
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 文化(宗教)

経歴

 豊科熊倉に生れました。幼名を伊太郎、法名を公雄と称し、虎洞・虚心・竪海・精進山人等と号しました。1851年(嘉永4)、父に従って江戸に出て浅草大護院道本について書を学びました。1858年(安政5)、穂高牧の真言宗満願寺で僧籍に入り、公忠和尚に従って4年間修行しました。1861年(文久1)から1879年(明治12)までの19年間、大和の長谷寺で修学、主として能満院海如和尚に就いて研鑽しました。この間、1874年(明治7)には、長谷寺普門院住職となり、訓導を拝命しました。1876年(明治9)、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のため廃寺となった満願寺を再興するため、観音講社を設立し再興に奔走しました。その後、室生寺住職17年間、同寺の文化財保存に尽し、その後、大蔵寺住職となり、18年間勤め三等司教を拝命しました。また、法隆寺にて九面観音を彫刻したり、「不二宗義真教興隆論」・「如意法憧」等の著述もしました。1920年(大正9)に、大阪府観心寺の国宝大随求菩薩像を五十余日かけて写しました。1927年(昭和2)6月、84歳で亡くなりました。

略歴譜

1843年(天保14) 0歳 豊科熊倉に生れる。幼名を伊太郎、法名を公雄と称し、虎洞・虚心・竪海・精進山人等と号す。
1851年(嘉永4)   江戸に出て浅草大護院道本について書を学ぶ。
1858年(安政5)   西穂高村牧の真言宗満願寺で、公忠和尚に従って4年間修行する。
1861年(文久1)   1879年(明治12)までの19年間、大和の長谷寺で修学、主として能満院海如和尚に就いて研鑽する。
1874年(明治7)   長谷寺普門院住職となり、訓導を拝命する。
1876年(明治9)   廃仏毀釈のため廃寺となった満願寺を再興するため、観音講社を設立する。
1878年(明治11)   大和の室生寺に入る。
1882年(明治15)   室生寺住職を拝命する。
  46歳 法隆寺にて、九面観音を彫刻する。
1894年(明治27)   室生寺住職を辞し、以後10年間、大和山城の諸寺院で務める。
1905年(明治38)   大蔵寺住職となり、三等司教を拝命する。
1920年(大正9)   大阪府観心寺の国宝大随求菩薩像を五十余日かけて写す。
1927年(昭和2)6月7日 84歳 大和国大蔵寺にて亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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