丸山 久左衛門|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0051997 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
丸山 久左衛門
まるやま きゅうざえもん
重柳地区の犀川川除(かわよけ)工事の際に起きた紛争を仲裁し、見事に示談に導く。
生年月日 | 1770年(明和7) |
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没年月日 | 1841年(天保12) |
関連地域 | 豊科(重柳) |
職業・肩書 | 水防功労者 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 社会(社会事業) |
経歴
豊科重柳に生れました。屋号を「伊勢宮」といい、近くに「伊勢宮」が祀(まつ)られています。犀川から洪水が襲う重柳耕地の頭首部に当ることから、伊勢神道による水防の神、天照大神(内宮・太陽の力による防水神)が祀られています。1783年(天明3)5月・7月に、大洪水が重柳耕地を襲い、田畑の大半が流失して、両岸の築堤はほとんど破壊されました。その復旧工事には、両岸各村の利害得失がからむため、長年にわたって紛争と示談が繰り返されましたが、久左衛門65歳の時、犀川川除工事の紛争で、「立入り」といって仲裁役に入り、見事に示談に導きました。1841年(天保12)に、71歳で亡くなりました。後の1900年(明治33)に、県営事業で本格的な堤防工事ができ、以来、耕地化が進み、重光堰が灌漑(かんがい)しています。
略歴譜
1770年(明和7) | 豊科重柳に生れる。屋号を「伊勢宮」という。 |
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1783年(天明3)5月・7月 | 大洪水が重柳耕地を襲い、田畑の大半が流失して、両岸の築堤はほとんど破壊される。 |
犀川川除工事の紛争で、「立入り」といって仲裁役に入り、見事に示談に導く。 | |
1841年(天保12) | 亡くなる。 |
参考文献
豊科町誌 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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