丸山 光司|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0051998 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
丸山 光司
まるやま みつじ
南安曇農学校の招致。豊科町長。法蔵寺で武居用拙・藤森寿平(桂谷)に学ぶ。
生年月日 | 1864年(元治元) |
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没年月日 | 1937年(昭和12) |
関連地域 | 豊科(新田) |
職業・肩書 | 自治功労者 |
活躍年 | 大正時代 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
豊科新田に生れました。1879年(明治12)、猶興義塾に入り、武居用拙・高橋白山・藤森桂谷に就いて学びました。その後東京で2年間法律を学び、1884年(明治17)に帰郷。長野で蚕業吏員(りいん)講習を受け、南安蚕種予防事務所吏員となりました。1889年(明治22)に蚕種製造業を創めました。1913年(大正2)に南安蚕種同業組合評議員になり、以降20年間連続で当選し、蚕種業発展のために尽力しました。1914年(大正3)には、篠崎四郎らと片倉組からの依嘱のもと、全国にさきがけて、現今飼育蚕種の元祖一代交配蚕種製造を始めました。1917年(大正6)に豊科町長に就任し、郡町村長会長となりました。豊科町商工会を設立して初代会長となりました。南安曇農学校(現南安曇農業高等学校)の招致に成功しました。小学校校舎の増築・公会堂の新築等、教育施設の充実に力を注ぎました。
略歴譜
1864年(元治元) | 豊科新田に生れる。 |
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1879年(明治12) | 猶興義塾に入って、武居用拙・高橋白山・藤森桂谷に就いて学ぶ。 |
1884年(明治17) | 東京で2年間、法律を学んだ後帰郷し、長野で蚕業吏員講習を受け、南安蚕種予防事務所吏員となる。 |
1913年(大正2) | 蚕種製造業を創め、南安蚕種同業組合評議員になり、以降20年間連続で当選し、蚕種業発展のために尽力する。 |
1914年(大正3) | 篠崎四郎らと片倉組からの依嘱のもと、全国にさきがけて、現今飼育蚕種の元祖一代交配蚕種製造を始める。 |
1917年(大正6) | 豊科町長に就任し、郡町村長会長となる。 |
豊科町商工会を設立して初代会長となる。南安曇農学校の招致に成功、小学校校舎の増築・公会堂の新築等を行う。 | |
1919年(大正8) | 日蓮宗一乗寺の新築に奔走して許可を得、私財を寄付して工事に着手し、12年間尽力して完成させる。 |
1925年(大正14) | 南安蚕種同業組合長に当選し、以降8年間務める。 |
1929年(昭和4) | 拾ヶ堰普通水利組合会議長に当選し、逝去するまでの9年間、議長として活躍する。 |
1930年(昭和5) | 長野県蚕種同業組合連合会から、大日本蚕種同業組合中央会議員に選出され、4年間在籍する。 |
1937年(昭和12) | 亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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豊科町誌 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |