丸山 盛雄|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052003 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
丸山 盛雄
まるやま もりお
県議を経て、信濃電気株式会社副社長・六十三銀行常務取締役・長野新聞社社長等数々の要職に就き、長野県実業界の重鎮として活躍する。
生年月日 | 1875年(明治8) |
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没年月日 | 1947年(昭和22) |
関連地域 | 豊科(本村) |
職業・肩書 | 実業家 |
活躍年 | 大正・昭和時代 |
ゆかりの分野 | 経済(経済) |
経歴
豊科本村に、自治功労者丸山英一郎の子として生れました。松本中学校(現松本深志高等学校)から早稲田大学に進み、1899年(明治32)に同大学を卒業して郷里に戻りました。1903年(明治36)に南安曇郡会議員、1907年(明治40)には県会議員に当選し、県参事会員として6年間、県政のために尽力しました。この間、立憲政友会の中心として重きをなしました。1913年(大正2)、信濃電気株式会社副社長に就任して、長野に転居したのを機に、実業界に入りました。1919年(大正8)、六十三銀行(現在の八十二銀行の前身)の常務取締役となり、その後、長野新聞社々長・南安曇銀行頭取・長野貯蓄銀行頭取等数々の要職に就き、長野県実業界の大立物として活躍しました。また、写真・狩猟・登山・スキー等多趣味で、特に写真技術は専門家を凌(しの)ぐほどでした。1931年(昭和6)、六十三銀行と十九銀行の合併を機に、六十三銀行を退職し、1947年(昭和22)に亡くなりました。
略歴譜
1875年(明治8) | 豊科本村に、自治功労者丸山英一郎の長男として生れる。 |
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松本中学校を経て、早稲田大学に学ぶ。 | |
1899年(明治32) | 早稲田大学を卒業して郷里に戻る。 |
1901年(明治34) | 家業を継ぐ。 |
1903年(明治36) | 南安曇郡会議員に当選する。 |
1907年(明治40) | 県会議員に当選し、県参事会員として6年間、県政のために尽力する。この間、立憲政友会の中心として活躍する。 |
1913年(大正2) | 信濃電気株式会社副社長に就任して長野に転居したのを機に実業界に入る。 |
1919年(大正8) | 六十三銀行の常務取締役となる。 |
長野新聞社社長・南安曇銀行頭取・長野貯蓄銀行頭取等数々の要職に就き、長野県実業界の大立物として活躍する。 | |
1931年(昭和6) | 六十三銀行と十九銀行の合併を機に、六十三銀行を退職する。 |
写真・狩猟・登山・スキー等多趣味で、特に写真技術は専門家を凌ぐほどであった。 | |
書画骨董では鑑賞眼を持ち、優秀な作品を多数所蔵していた。 | |
1947年(昭和22) | 病気のため亡くなる。 |