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宮下 孫左衛門|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052012 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新

宮下 孫左衛門
みやした まござえもん

庄屋・越(こし)庄屋として、私費を投じ高瀬川の川除(かわよけ)、五ヵ用水の改修工事・郡境論争に尽力する。

生年月日 1823年(文政6)
没年月日 1883年(明治16)3月5日
関連地域 明科(上押野)
職業・肩書 庄屋・越庄屋(鵜山村)
活躍年 江戸時代
ゆかりの分野 政治(村政)・経済(産業)

 

経歴

明科上押野に生れました。押野村の庄屋、及び鵜山村の越庄屋を勤めました。私費を投じて堀川を掘り、高瀬川の瀬戻しをし、高瀬川の川除(かわよけ)に尽したほか、五ヵ用水の改修工事や郡境争論の解決にも尽力しました。1861年(文久1)、皇女和宮の降嫁の時は、村民と共に中山道の宿場へ助郷(すけごう)に出て、夫食(ぶじき)の炊き出し等の世話役を申し付けられ、格別に精を出したので、藩主より褒美金を頂戴しました。元治・慶応年間の長州征伐に軍夫(ぐんぷ)差し出しの折に、池田組の役人として一番くじを引き、軍夫引率の用意をし、入用金を22両、松本藩へ出しました。その他にも時々に献金したため、苗字帯刀を許されました。1870年(明治3)に庄屋が名主となったのを機に、職を子の主枝(かずえ)に譲り退きました。1883年(明治16)3月5日に亡くなりました。

略歴譜

1823年(文政6) 明科上押野に生れる。
  押野村の庄屋、及び鵜山村の越庄屋を勤める。
  私費を投じて堀川を堀り、高瀬川の瀬戻しをし、高瀬川の川除に尽す。
  五ヵ用水の改修工事や郡境論争にも尽力する。
1861年(文久1) 皇女和宮降嫁の際、夫食の炊き出し等の世話役を申し付けられ、格別に精を出して藩主より褒美金を頂戴する。
元治・慶応年間 長州征伐に軍夫差し出しの折に、池田組の役人として一番くじを引き、軍夫引率の用意をし、入用金を22両、松本藩へ出す。その他にも時々に献金したため、苗字帯刀を許される。
1870年(明治3) 庄屋が名主となったのを機に職を子の主枝(かずえ)に譲り退く。
1883年(明治16)3月5日 亡くなる。

参考文献

明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館

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