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宮下 琢磨|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052013 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

宮下 琢磨
みやした たくま

七貴小学校校長となり、郡・県視学を歴任する。また、片倉製紙の今井五介と信濃海外協会・海外協会中央会を設立し、尽力する。日本栄養協会で、栄養改善運動に従事する。

生年月日 1878年(明治11)6月8日
没年月日 1952年(昭和27)9月29日
関連地域 明科(上押野)
職業・肩書 教育功労者・実業家
活躍年 大正時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

明科上押野に生れました。長野師範学校を卒業し、七貴小学校訓導となり、1902年(明治35)には、七貴小学校校長となりました。在任中に、県下に先がけて七貴小学校校歌を作りました。1909年(明治42)に南佐久郡視学となり、小県郡視学・長野県視学を歴任した後、1914年(大正3)、宮城県視学に転任しました。
1917年(大正6)に片倉組よりのすすめにより、県視学を辞して田中製糸工場支配人を勤めました。1920年(大正9)には片倉製糸株式会社となり、本社の東京への移転に伴い、本社に転勤し、副社長今井五介の秘書となりました。今井と海外発展計画を推進し、1922年(大正11)に、県知事を会長とし、今井を顧問として、信濃海外協会を設立し幹事となりました。翌年、今井五介を会長として海外協会中央会を設立し、幹事となりました。1933年(昭和8)より、日本栄養協会で、専ら栄養改善運動に従事し、月刊誌「栄養の栞」を、1941年(昭和16)まで編集・発行しました。1944年(昭和19)、郷里に疎開し、1952年(昭和27)に74歳で亡くなりました。

略歴譜

1878年(明治11)6月8日 0歳 明科上押野に生れる。
    長野師範学校を卒業し、七貴小学校訓導となる。
1902年(明治35)   七貴小学校校長となる。1906(明治39)から1908(明治41)年度も同校校長を勤める。
    在任中に、県下に先がけて七貴小学校校歌を作る。
1909年(明治42)から
1914年(大正3)
  南佐久郡視学・小県郡視学・長野県視学を歴任した後、宮城県視学に転任する。
1917年(大正6)   片倉組よりのすすめにより、県視学を辞して、田中製糸工場支配人を勤める。
1920年(大正9)   片倉製糸株式会社となり、本社の東京への移転に伴い、本社に転勤し、副社長今井五介の秘書となる。
1922年(大正11)   今井氏と海外発展計画を推進し、県知事を会長とし、今井氏を顧問として、信濃海外協会を設立し幹事となる。
1923年(大正12)   今井氏を会長として海外協会中央会を設立し、丸ビル4階に事務所を置き幹事となる。
1925年(大正14)・
1928年(昭和3)
  片倉製紙の海外発展と邦人活躍実情調査のため、海外を視察する。
1933年(昭和8)から
1941年(昭和16)
  日本栄養協会で、月刊誌「栄養の栞」を編集・発刊する等して活躍する。
1944年(昭和19)   郷里上押野に疎開する。
1952年(昭和27)9月29日 74歳 亡くなる。

参考文献

明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館

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