宮下 琢磨|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052013 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
宮下 琢磨
みやした たくま
七貴小学校校長となり、郡・県視学を歴任する。また、片倉製紙の今井五介と信濃海外協会・海外協会中央会を設立し、尽力する。日本栄養協会で、栄養改善運動に従事する。
生年月日 | 1878年(明治11)6月8日 |
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没年月日 | 1952年(昭和27)9月29日 |
関連地域 | 明科(上押野) |
職業・肩書 | 教育功労者・実業家 |
活躍年 | 明治から昭和時代 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
明科上押野に生れました。長野師範学校を卒業し、七貴小学校訓導となり、1902年(明治35)には、七貴小学校校長となりました。在任中に、県下に先がけて七貴小学校校歌を作りました。1909年(明治42)に南佐久郡視学となり、小県郡視学・長野県視学を歴任した後、1914年(大正3)、宮城県視学に転任しました。
1917年(大正6)に片倉組のすすめにより、県視学を辞して田中製糸工場支配人を勤めました。1920年(大正9)には片倉製糸株式会社となり、本社の東京への移転に伴い、本社に転勤し、副社長今井五介の秘書となりました。今井と海外発展計画を推進し、1922年(大正11)に、県知事を会長とし、今井を顧問とする、信濃海外協会を設立し幹事となりました。さらに、翌年今井五介を会長とする海外協会中央会を設立し、幹事となりました。1933年(昭和8)より、日本栄養協会を舞台に栄養改善運動に従事し、月刊誌『栄養の栞(しおり)』を、1941年(昭和16)まで編集・発行しました。1944年(昭和19)、郷里に疎開し1952年(昭和27)に亡くなりました。
略歴譜
1878年(明治11)6月8日 | 明科上押野に生れる。 |
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長野師範学校を卒業し、七貴小学校訓導となる。 | |
1902年(明治35) | 七貴小学校校長となる。1906(明治39)から1908(明治41)年度も同校校長を勤める。 |
在任中に、県下に先がけて七貴小学校校歌を作る。 | |
1909年(明治42)から 1914年(大正3) |
南佐久郡視学・小県郡視学・長野県視学を歴任した後、宮城県視学に転任する。 |
1917年(大正6) | 片倉組のすすめにより、県視学を辞して、田中製糸工場支配人を勤める。 |
1920年(大正9) | 片倉製糸株式会社となり、本社の東京への移転に伴い、本社に転勤し、副社長今井五介の秘書となる。 |
1922年(大正11) | 今井氏と海外発展計画を推進し、県知事を会長とし、今井氏を顧問とする、信濃海外協会を設立し幹事となる。 |
1923年(大正12) | 今井氏を会長として海外協会中央会を設立し、丸ビル4階に事務所を置き幹事となる。 |
1925年(大正14)・ 1928年(昭和3) |
片倉製紙の海外発展と邦人活躍実情調査のため、海外を視察する。 |
1933年(昭和8)から 1941年(昭和16) |
日本栄養協会で、月刊誌『栄養の栞』を編集・発刊する等して活躍する。 |
1944年(昭和19) | 郷里上押野に疎開する。 |
1952年(昭和27)9月29日 | 亡くなる。 |
参考文献
明科町史 | 明科町史編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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