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宮下 量平|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052015 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

宮下 量平
みやした りょうへい

押野消防組発足や七貴村学務委員として努め、4期にわたり、七貴村村長として、村政に尽力した。

生年月日 1858年(安政5)12月25日
没年月日 1927年(昭和2)9月12日
関連地域 明科(押野)
職業・肩書 自治功労者
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

明科押野の庄屋宮下孫左衛門の五男として生れました。1895年(明治28)に、押野消防組発足に尽力して小頭(こがしら)となり、翌年に組頭(くみがしら)となりました。1896年(明治29)から1916年(大正5)までと、1921年(大正10)から1927年(昭和2)まで、七貴村学務委員を勤めました。1897年(明治30)に北安曇郡会議員を勤めたほか、七貴村農会長・村社八幡宮氏子総代等に就きました。
1899年(明治32)には七貴村村長に就任し、1909年(明治42)2月までと、1917年(大正6)から1921年(大正10)まで、延べ4期勤めました。その間、七貴小学校校舎新築・屋内体操場新築・大町明科線道路改修・堤防改修等を行いました。

略歴譜

1858年(安政5)12月25日 0歳 明科押野の庄屋宮下孫左衛門の五男として生れる。
1895年(明治28)   押野消防組発足に尽力し、小頭となる。
1896年(明治29)   押野消防組組頭となる。
1896年(明治29)   1916年(大正5)までと、1921年(大正10)から1927年(昭和2)まで、七貴村学務委員を勤める。
1897年(明治30)   1899年(明治32)まで、北安曇郡会議員を勤める。
    七貴村農会長・村社八幡宮氏子総代等に就く。
1899年(明治32)   1909年(明治42)2月まで、七貴村村長を勤める。
1917年(大正6)   1921年(大正10)まで、延べ4期にわたり、七貴村村長を勤める。
    その間、七貴小学校校舎新築・屋内体操場新築・大町明科線道路改修・堤防改修等を行う。
1921年(大正10)   1927年(昭和2)まで七貴村学務委員を勤める。
1927年(昭和2)9月12日 68歳 亡くなる。

参考文献

明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館

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