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降幡 数太郎|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052149 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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降幡 数太郎
ふりはた かずたろう

小倉村助役、村長を歴任。発電開始。小倉官林約600町歩の開墾・水道の普及等村の自治に尽力する。農村経済恐慌のなか、大旱魃(かんばつ)等に見舞れ、六か村開墾組合の経営に血のにじむような苦心を払う。

生年月日 1869年(明治2)
没年月日 1941年(昭和16)
関連地域 三郷(南小倉)
職業・肩書 自治功労者
活躍年 大正時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

三郷南小倉に生れました。1889年(明治22)、小倉村役場書記となりました。郡会議員を8年間勤め、1910年(明治43)に助役となりました。1919年(大正8)、黒沢電気会社を創設し、同時期に発足した安曇電気株式会社と折衝して、発電を開始し、小倉に点灯するようになりました。1919年(大正8)に小倉村長に就任しました。小倉官有林約600町歩の大耕地開墾の管理者となって、全責任を持って指揮し、1931年(昭和6)にほぼ終了しました。さらに、簡易水道の普及、学校校舎の統合、教員住宅・役場庁舎を改築したほか、小倉地区に郵便局を開局する等、村政に大きく貢献しました。また、自動車会社を設立して運輸の便も図りました。                                                                   特に、大正後期から昭和初期にかけては、農村経済恐慌のなか、大旱魃(かんばつ)・凍冷害に見舞われ、農村の疲弊は極度に達し、六か村開墾組合の財政が窮乏して、血のにじむような苦心を払いました。1941年(昭和16)に亡くなり、村民は、その逝去を悼み、準村葬が行われました。

略歴譜

1869年(明治2) 0歳 三郷南小倉に生れる。
1889年(明治22)   小倉村役場書記となる。
    郡会議員を8年間勤める。
1910年(明治43)   助役に就任する。
1919年(大正8)   黒沢電気株式会社を創設し、同時期に発足した安曇電気株式会社と折衝して、発電を開始し、小倉に点灯するようになる。
1919年(大正8)   小倉村長に就任し、小倉官有林約600町歩の管理者となり、農林省への対応等、全責任を持って指揮する。
1922年(大正11)   小倉開墾地の簡易水道に着手し、全戸給水が実現する。
1923年(大正12)   村長に再選され、その間、産業組合が組織されて、初代会長に選ばれ兼任する。
1925年(大正14)   赤沢より地下水を導入して、開田する。
1928年(昭和3)   黒沢川に2か所、架橋工事を竣工(しゅんこう)する。
    時あたかも、農村経済恐慌、1924年(大正13)には大旱魃(かんばつ)に遭い、1927年(昭和2)には凍霜害に見舞われて減収となり、昭和5、6年には財政が極度に窮迫して、その打開策に血のにじむような苦心を払う。
    小学校校舎の統合、教員住宅・役場庁舎を改築したほか、小倉地区に郵便局を開局して局長となる。自動車会社を設立して運輸の便を図る。
    村長を4期16年勤めているなかで、郡町村会副会長・郡会議員を務める。
    郡会議員を2期勤めたほか、長野県耕地協会の役員も務める。
1941年(昭和16) 72歳 亡くなる。村民は、その逝去を悼み、準村葬が行われる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館
三郷村誌1 三郷村誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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