高橋 白山|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052151 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
高橋 白山
たかはし はくざん
安曇地方及び長野県の近代教育創立者の一人。明治初期、筑摩権令永山盛輝の片腕として師範教育を、また、研成学校初代校長として小学教育の基礎を築いた。
生年月日 | 1836年(天保7)12月 |
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没年月日 | 1904年(明治37)3月 |
関連地域 | 豊科(新田。伊那市高遠町出身。) |
職業・肩書 | 教育功労者・漢学者 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 文化(教育) |
経歴
上伊那郡高遠藩士高橋確斎の長男として生れました。通称敬十郎。藩校の進徳館に学び、1863年(文久3)に同校の師範代となりました。その後、江戸に出て鷲津毅堂を介して藤森天山の門に入り、大沼枕山を始め諸名士と交友し、識見を広めました。明治に入り、小野村(現辰野町)の時習館初代館長、洗馬村(現塩尻市)の塾主を務めた後、1871年(明治4)春、新田村(現豊科)で藤森寿平が開塾した実践社の塾頭に招かれました。1873年(明治6)2月には、筑摩権令永山盛輝に認められ、師範教育を行うと共に、研成学校初代校長として小学校教育の基礎を築いた。白山は住む所に必ず塾を設け、門人は数千人に及んだと言われています。
略歴譜
1836年(天保7)12月 | 0歳 | 上伊那郡高遠藩士高橋確斎の長男として生れる。 |
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1863年(文久3) | 藩校進徳館で中村元起に学び、師範代となる。13年間で、館の蔵書3万巻を読破する。 | |
文久 | 江戸に出て、鷲津毅堂を介して藤森天山の門に入り、大沼枕山を始め諸名士と交友し、識見を広める。 | |
1871年(明治4)春 | 34歳 | 新田村(現豊科)で、藤森寿平が私費で開塾した実践社の塾頭に招かれる。 |
1873年(明治6) | 36歳 | 筑摩県令永山盛輝に認められ、研成学校と兼任して筑摩県師範講習所(現信州大学教育学部)で教鞭を執る。 |
1874年(明治7)11月・ 1875年(明治8)12月 |
飯田正宣・太田幹と共に、「上下小学授業法細記」と「小学授業必携」を著し、県内はもとより広く国内に普及する。 | |
明治 | 文部省の学力調査で、筑摩県が第1位となる。永山権令の力によるものとともに、白山の助力も大きかったと言われる。 | |
1877年(明治10)4月 | 40歳 | 県師範学校(現信州大学教育学部)講師を勤める。翌年に、永山権令に招かれて新潟師範学校(現新潟大学教育学部)教授、続いて村上小学校初代校長を勤める。 |
1880年(明治13)5月 | 43歳 | 父確斎の病気のため帰郷し、看病に努める。翌年に塾を開いて子弟の教育に当り、後に県内の小学校長を歴任する。 |
身を持すること謹厳、気骨剛健で学を好み、教えて倦まず、子弟を愛育して寛厳兼ね備わり、子弟の信望が厚くなる。 | ||
1901年(明治34)10月 | 64歳 | 退職後は、詩文を友として悠々自適な日々を送っていたが、東京に勤務している嗣子作衛の所へ移る。 |
1904年(明治37)3月 | 67歳 | 亡くなる。亡くなる2日前に、世辞の詩「清風繞高枕、穏臥夢猶閑、名刻信山石、神遊天地間」を作る。 |
1918年(大正7) | 正五位を追贈される。 |
参考文献
- 松本深志高等学校創立130周年 特別企画展 長野県中学校一県一校時代の教師と生徒たち
中等教育資料管理委員会/編 執筆中島博昭氏 中等教育資料管理委員会/編 執筆中島博昭氏 - 信州大学公式ホームページ
- 新潟大学公式ホームページ
- ウィキペディア「長野師範学校」
- ウィキペディア「新潟第一師範学校」
- ウィキペディア「新潟第二師範学校」