高山 勇|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052153 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
高山 勇
たかやま いさむ
中房谷からの引湯を成功させ穂高温泉郷を実現した穂高町長。天蚕の復活・初代松沢求策顕彰会長・本陣等々力家の公開等、郷土の個性の顕現に貢献。
生年月日 | 1902年(明治35)9月29日 |
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没年月日 | 1990年(平成2)7月29日 |
関連地域 | 穂高(柏原) |
職業・肩書 | 地方自治功労者 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 経済(産業) |
経歴
穂高柏原に生れました。1918年(大正7)3月、南安曇郡北部農学校(現穂高商業高等学校)を卒業しました。1919年(大正8)6月10日、長野県養蚕教師免許を取得して、1926年(大正15)10月には西穂高村役場に就職し、勧業係を勤めました。1929年(昭和4)7月1日に、推されて西穂高村産業組合書記となりましたが、1938年(昭和13)、弟の戦死や過労により体調を崩し、これを機に人生観が大きく転換しました。その後、三田村産業組合・長野県厚生農業協同組合連合会副会長理事等を歴任しました。1962年(昭和37)12月に推されて穂高町長となり、穂高温泉郷や学者村の実現、ミニ下水道穂高方式の開発、天蚕の復活等、地域の発展に貢献しました。また、早くから行った自主財源培養の効果は大きく、成果を上げました。
略歴譜
1902年(明治35)9月29日 | 穂高柏原に生れる。 |
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1918年(大正7)3月 | 南安曇郡北部農学校を卒業する。 |
1919年(大正8)6月10日 | 長野県養蚕教師免許を取得する。 |
1926年(大正15)10月20日 | 西穂高村役場に就職し、勧業係を勤める。 |
1929年(昭和4)7月1日 | 西穂高村産業組合書記となる。 |
1938年(昭和13)10月10日 | 弟の戦死や過労により体調をくずし、人生第二の転換期となる。三田村産業組合駐在を勤める。 |
1941年(昭和16)3月31日 | 産業組合中央会長野支会南安曇郡部会主事補となり、産業組合の中枢を勤める。 |
1960年(昭和35)6月9日 | 長野県厚生農業協同組合連合会(県厚生連)副会長理事に就任する。 |
1962年(昭和37)12月15日 | 穂高町長となり、穂高温泉郷や学者村の開発等を行い、町政と経済の発展に著しく貢献する。 |
1970年(昭和45)12月15日 | 穂高町長に再選する。3・4選を含めて、早くから行った自主財源培養の効果は大きく、成果を上げる。 |
1977年(昭和52) | 自然文化の保存と復興を図り、特に、天蚕技術の伝承に貢献する。 |
1990年(平成2)7月29日 | 死去。 |
参考文献
穂高に生きて―わが八十年の生涯― | 『高山勇回顧録』出版委員会/発行 | 安曇野市立図書館 |
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