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高山 勇|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052153 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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高山 勇
たかやま いさむ

中房谷からの引湯を成功させ穂高温泉郷を実現した穂高町長。天蚕の復活・初代松沢求策顕彰会長・等々力邸の公開等、郷土の個性の顕現に貢献。

生年月日 1902年(明治35)9月29日
没年月日 1990年(平成2)7月29日
関連地域 穂高(柏原)
職業・肩書 地方自治功労者
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

穂高柏原に生れました。1918年(大正7)3月、南安曇郡北部農学校(現穂高商業高等学校)を卒業しました。1919年(大正8)6月10日、長野県養蚕教師免許を取得して、1926年(大正15)10月には西穂高村役場に就職し、勧業係を勤めました。1929年(昭和4)7月1日に、推されて西穂高村産業組合書記となりましたが、1938年(昭和13)、弟の戦死や過労により体調を崩し、これを機に人生観が大きく転換しました。その後、三田村産業組合・長野県厚生農業協同組合連合会副会長理事等を歴任しました。1962年(昭和37)12月に推されて穂高町長となり、穂高温泉郷や学者村の実現、ミニ下水道穂高方式の開発、天蚕の復活等、地域の発展に貢献しました。また、早くから行った自主財源培養の効果は大きく、まれに見る成果を上げました。

略歴譜

1902年(明治35)9月29日 0歳 穂高柏原に生れる。
1918年(大正7)3月 15歳 南安曇郡北部農学校を卒業する。
1919年(大正8)6月10日 16歳 長野県養蚕教師免許を取得する。
1926年(大正15)10月20日 24歳 西穂高村役場に就職し、勧業係を勤める。
1929年(昭和4)7月1日 26歳 推されて西穂高村産業組合書記となる。
1938年(昭和13)10月10日 36歳 弟の戦死や過労により体調をくずし、人生第二の転換期となる。三田村産業組合駐在を勤める。 
1941年(昭和16)3月31日 38歳 産業組合中央会長野支会南安曇郡部会主事補となり、産業組合の中枢を勤める。
1960年(昭和35)6月9日 57歳 長野県厚生農業協同組合連合会(県厚生連)副会長理事に就任する。
1962年(昭和37)12月15日 60歳 推されて穂高町長となり、穂高温泉郷や学者村の開発等を行い、町政と経済の発展に著しく貢献する。
1970年(昭和45)12月15日 68歳 穂高町長に再選され、3・4選を含めて、早くから行った自主財源培養の効果は大きく、まれに見る成果を上げる。
1977年(昭和52)   自然文化の保存と復興を図り、特に、天蚕技術の伝承に貢献する。
1990年(平成2)7月29日 87歳 亡くなる。

参考文献

穂高に生きて―わが八十年の生涯― 『高山勇回顧録』出版委員会/発行 安曇野市立図書館

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