高島 章貞|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052155 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
拡大表示 © 制作 征矢野久
高島 章貞
たかしま しょうてい
医師、私塾・星園塾師匠。松沢求策・望月忠蔵の師。
生年月日 | 1804年(文化1) |
---|---|
没年月日 | 1869年(明治2) |
関連地域 | 穂高(東穂高) |
職業・肩書 | 医師・文学者・塾 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 社会(医療厚生) |
経歴
穂高東穂高に生れました。祖父の代からの医業を継ぎ、外科に秀でていました。医学と文学の研究を行いました。穂高で星園塾を開き、自由民権家松沢求策、教育家胡桃儒策、実業家望月忠蔵、南安曇郡最初の県会議員小川為一郎等を養成しました。歌人・国学者の橘千陰と並び称され、かなは香川景樹に私淑(ししゅく)し、士気のみなぎる書風で知られていました。碑文では、穂高白金の望月びん重筆塚、豊科重柳の馬頭観音、穂高等々力の庚申塔(こうしんとう)、穂高荒屋の百穀豊登の石碑、明科の丸山庄蔵筆塚に自筆の和歌を残しました。1869年(明治2)に勤王運動が高まり、京都へ行く途中、近江(滋賀県)で急な病に倒れ、亡くなりました。
略歴譜
1804年(文化1) | 穂高東穂高に生れる。祖父の代から医業が継がれている。 |
---|---|
香川景樹に入門し、桂園派の和歌に長じる。 | |
医師となって周遊し、医学と文学を研究する。外科に秀でる。 | |
穂高に帰り、星園塾を開く。 | |
経史・詩文・諸子及び国学に精通し、和歌は香川景樹についてその道を深め、傍ら仏典を修めて造詣も深い。 | |
松沢求策らを輩出した。 | |
1869年(明治2) | 招令を受けて京都へ急ぐも、大津で死去。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
---|---|---|
安曇野の美術 | 丸山楽雲/編 | 安曇野市立図書館 |