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轟 伝|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052157 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

轟 伝
とどろく つとう

第10大区長等の要職を勤め、穂高に「研成学校」の新設、重柳氾濫(はんらん)原の水防と耕地化、蚕種生産のために興した「開産社」の社長となる等、自治経済振興に尽力する。

生年月日 1830年(天保1)
没年月日 1885年(明治18)
関連地域 豊科(重柳)
職業・肩書 大庄屋
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 経済(産業)

 

経歴

豊科重柳に、保高組大庄屋等々力伝右衛門の子として生れました。明治維新までの18年間、父親の伝右衛門を襲名して大庄屋を勤め、1869年(明治2)「轟伝」と改名し、重柳村名主を勤めました。1872年(明治5)に、制度改正により、重柳村ほか四ヶ村戸長兼学校世話役・病院世話役となり、翌年、第10大区長に任ぜられました。穂高に研成学校の新設、重柳氾濫(はんらん)原の水防と耕地化、蚕種生産のために興した「開産社」の社長となる等、教育と自治経済振興のために尽力しました。伊勢神宮に神官教本部がおかれて、各地に組織された「神風講社」の社長も務めました。 1879年(明治12)、南安曇郡役所が開設され、次席書記を3年間勤めました。1885年(明治18)、55歳で亡くなりました。

略歴譜

1830年(天保1) 0歳 豊科重柳に、保高組大庄屋等々力伝右衛門の子として生れる。
    明治維新までの18年間、父親の伝右衛門を襲名して大庄屋を勤める。
1869年(明治2)12月   「轟伝」と改名し、重柳村名主を勤める。
1872年(明治5)   制度改正により、重柳村ほか四ヶ村戸長兼学校世話役・病院世話役となる。
1873年(明治6)3月   第10大区長(元成相組・保高組・松川組)に任ぜられる。
    穂高に研成学校の新設のため、学区取締兼研成学校幹事として尽力する。
    重柳氾濫原の水防と耕地化、蚕種生産のため「開産社」を興し社長となる等、自治経済振興のため尽力する。
    伊勢神宮に神官教本部がおかれて、各地に組織された「神風講社」の社長となる。
1875年(明治8)   穂高神社に、神風講社大区教会所が新築される。
1879年(明治12)   南安曇郡役所が開設され、次席書記となる。初代郡長は関口侯彦、首席書記は松尾重義となる。
1881年(明治14)   南安曇郡次席書記を辞職する。
1885年(明治18) 55歳 亡くなる。

参考文献

豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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