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細萱 伝平|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052164 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

細萱 伝平
ほそがや でんぺい

学識を募って教えを請う門弟500人余を数え、明治の先覚者藤森佳谷等の有能な人材を育てる。

生年月日 不詳
没年月日 不詳
関連地域 豊科(寺所)
職業・肩書 教育者
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 文化(教育)

 

経歴

豊科寺所に生れました。名は直次郎といい、諡(おくりな)は修安、梅荘と号しました。農業の合間に、朱子学や歌、書を学び、特に草書に長(た)けていました。近隣から人格と学識を慕って、教えを請う人が500人余になったといいます。成相新田の豪農藤野屋の請いに応じ、その邸宅に学問所(後に法蔵寺大門に移る)を開設しました。明治の先覚者画家藤森桂谷らを教え、明治の新しい時代を築く有能な人物を育てました。
1876年(明治9)12月、寺所観音堂の西方西ノ側通りに、細萱伝平の大きな筆塚が建てられました。この筆塚は、新設「豊科学校」校長の藤森桂谷唯一の碑の書であり、穂高「研成学校」校長の高橋白山の碑文によるものです。

略歴譜

生年不詳 0歳 豊科寺所に生れる。名は直次郎ともいい、諡は修安、梅荘と号する。
    農業の合間に、朱子学や歌、書を学び、特に草書に長ける。
    近隣から人格と学識を慕って、教えを請う人が500人余になったという。
    成相新田の豪農藤野屋の請いに応じ、その邸宅に学問所を開設する。
    明治の先覚者画家藤森桂谷らを教える。
1876年(明治9)12月   寺所観音堂の西方西ノ側通りに、細萱伝平の大きな筆塚が建てられる。
没年不詳   亡くなる。

参考文献

豊科町誌 豊科町誌編纂会/編 安曇野市立図書館

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