三宅 逸平次|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052170 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
三宅 逸平次
みやけ いっぺいじ
帰農して塾を開き、子弟を教育する。七貴村戸長になり、村の基礎づくりをし、中川手村小学校初代校長となる。
生年月日 | 1830年(文政13)8月20日 |
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没年月日 | 1906年(明治39)3月3日 |
関連地域 | 明科(押野) |
職業・肩書 | 塾主・戸長・初代校長 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 文化(文芸) |
経歴
1830年(文政13)に生れ、本名は政明、また六川釣叟とも称しました。 松本藩士。1871年(明治4)に廃藩置県となり、押野の地へ帰農し、塾を開いて子弟を教育しました。1880年(明治13)、村民に推されて七貴村戸長に就任し、1882年(明治15)まで村の基礎づくりをしました。1889年(明治22)には、中川手村小学校初代校長となり、翌1890年(明治23)、子の降幡みさごに譲りました。
また、漢詩を能(よ)くし、「押野崎眺望 六川滔々自東西 十里平原落眼中 風雪一朝湧銀海 松林彷彿似艨艟(軍艦)」を作りました。1906年(明治39)3月3日に亡くなり、1912年(大正1)12月に、押野門人一同で筆塚を建てました。
子弟に、軍人歌人の斉藤瀏、漢学者の校長・陸郷村長降幡みさごがいました。
略歴譜
1830年(文政13)8月20日 | 生れる。 |
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1871年(明治4) | 松本藩士。廃藩置県となり、押野の地へ帰農し、塾を開いて子弟を教育する。 |
1880年(明治13) | 村民に推されて、1882年(明治15)まで七貴村戸長に就任し、村の基礎づくりをする。 |
1889年(明治22) | 中川手村小学校初代校長となり、翌年、子の降幡みさごに譲る。 |
六川釣叟と称し、漢詩を能くし、「押野崎眺望 六川滔々自東西 十里平原落眼中 風雪一朝湧銀海 松林彷彿似艨艟(軍艦)」を作る。 | |
1906年(明治39)3月3日 | 亡くなる。 |
1912年(大正1)12月 | 押野門人一同が筆塚を建てる。 |
参考文献
明科町史 | 明科町史編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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