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三宅 逸平次|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052170 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

三宅 逸平次
みやけ いっぺいじ

帰農して塾を開き、子弟を教育する。七貴村戸長になり、村の基礎づくりをし、中川手村小学校初代校長となる。

生年月日 1830年(文政13)8月20日
没年月日 1906年(明治39)3月3日
関連地域 明科(押野)
職業・肩書 塾主・戸長・初代校長
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 文化(文芸)

 

経歴

1830年(文政13)に生れ、号は、政明・六川釣叟と称しました。 松本藩士。1871年(明治4)に廃藩置県となり、押野の地へ帰農し、塾を開いて子弟を教育しました。1880年(明治13)、村民に推されて七貴村戸長に就任し、1882年(明治15)まで村の基礎づくりをしました。1889年(明治22)には、中川手村小学校初代校長となり、翌1890年(明治23)、子の降幡みさごに譲りました。
また、漢詩を能(よ)くし、「押野崎眺望 六川滔々自東西 十里平原落眼中 風雪一朝湧銀海 松林彷彿似艨艟(軍艦)」を作りました。1906年(明治39)3月3日に亡くなり、1912年(大正1)12月に、押野門人一同で筆塚を建てました。
子弟に、軍人歌人の斉藤瀏、漢学者の校長・陸郷村長降幡みさごがいました。

略歴譜

1830年(文政13)8月20日 0歳 生れる。号は、政明・六川釣叟と称する。
1871年(明治4)   松本藩士。廃藩置県となり、押野の地へ帰農し、塾を開いて子弟を教育する。
1880年(明治13)   村民に推されて、1882年(明治15)まで七貴村戸長に就任し、村の基礎づくりをする。
1889年(明治22)   中川手村小学校初代校長となり、翌年、子の降幡みさごに譲る。
    漢詩を能くし、「押野崎眺望 六川滔々自東西 十里平原落眼中 風雪一朝湧銀海 松林彷彿似艨艟(軍艦)」を作る。
1906年(明治39)3月3日 75歳 亡くなる。
1912年(大正1)12月   押野門人一同で筆塚を建てる。
    子弟に、軍人歌人の斉藤瀏、漢学者の校長・陸郷村長降幡みさごがいた。

参考文献

明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館

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