三沢 力太郎|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052172 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
三沢 力太郎
みさわ りきたろう
科学水準の向上、日中親善に尽力。教育者。
生年月日 | 1856年(安政3) |
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没年月日 | 1925年(大正14)6月13日 |
関連地域 | 三郷(七日市場) |
職業・肩書 | 教育功労者 |
活躍年 | 大正時代 |
ゆかりの分野 | 文化(教育) |
経歴
三郷七日市場に生れました。大局に立って統括する才に優れ、教育の刷新に努めました。中国湖北省の首都武昌の高等師範堂(高等師範学校)校長兼教育省最高顧問として5年間、日欧教育の長所を採択し、中国文化の向上に努めると共に、また一面、日中親善の道を講じ、排日思想の融和に尽力しました。中国で内乱が起り、帰国後は、兵庫中学校長・秋田中学校長を勤め、教育の刷新に努力しました。また、日本人の科学的常識の啓発に意をそそぎ、日本の自然科学水準を高めるために大きな役割を果しました。時代の求めに合った平易な科学書『自然界の現象』『自然物の利用』『自然力の利用』『天界の現象』『人体の現象』等を著述しました。
略歴譜
1856年(安政3) | 0歳 | 三郷七日市場に生れる。 |
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一日市学校に奉職する。 | ||
長野県師範学校を卒業する。 | ||
岐阜県師範学校の教諭となる。 | ||
大阪府天王寺中学校に勤める。 | ||
東京高等師範学校の校長加納治五郎から、中国湖北省の首都武昌に創設された高等師範学校長・教育省最高顧問に推薦される。 | ||
中国湖北省の首都武昌の高等師範学校長となり、日本の美点の紹介・中国文化の向上・日支親善のために5年間勤める。 | ||
中国で内乱が起り、帰国し、兵庫中学校長・秋田中学校長を勤め、教育の刷新に努力する。 | ||
1925年(大正14)6月13日 | 69歳 | 秋田県に在任中、推されて衆議院議員に立候補するが、急病のため亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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三郷村誌1 | 三郷村誌編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |