山口 誠象|安曇野ゆかりの先人たち
山口 誠象
やまぐち せいぞう
八十二銀行松本支店長として30余年間、長野県財界で活躍。また、初代烏川村長(8年)、初代堀金村長を勤め、村政においても尽力する。
生年月日 | 1884年(明治17) |
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没年月日 | 1968年(昭和43)4月 |
関連地域 | 堀金(岩原) |
職業・肩書 | 自治功労者 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 経済(経済) |
経歴
堀金岩原に、村長山口吉人の長男として生れました。1905年(明治38)、早稲田大学政経科を卒業し、松本戊戌(ぼじゅつ)商業学校(現松商学園高校)教諭、南安曇郡書記を勤めました。1915年(大正4)に、転身して銀行界に入り、1937年(昭和12)には、八十二銀行松本支店長となって、30余年間にわたり、本県財界の逸財として活躍しました。1947年(昭和22)、公選村長として、初代烏川村長に当選し、烏川村長を2期8年間勤めました。戦後の混乱期に村財政を建て直すとともに、六三制施行後、すぐに組合立堀金中学校を新設しました。1950年(昭和25)、堰改修によって、戦後の食糧不足を打開するため、総務委員松島虎男と陳情請願を繰り返し、農林省の許可を得ました。1953年(昭和28)に、町村合併促進法の施行後、すぐに烏川・三田両村の合併を企図し、献身的な努力を払いました。1955年(昭和30)4月1日、堀金村が誕生し、初代村長に就任して、村政に力を注ぎ着々と成果を挙げました。1957年(昭和32)2月、病のため、自ら村長の職を退きました。その後は、烏川土地改良区理事長として、水路の開発や開田事業に、14年余にわたって尽力しました。1968年(昭和43)4月、亡くなりました。
略歴譜
1884年(明治17) | 堀金岩原に、村長山口吉人の長男として生れる。 |
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1905年(明治38) | 早稲田大学政経科を卒業し、松本戊戌商業学校教諭となる。 |
1910年(明治43) | 南安曇郡書記を勤める。 |
1915年(大正4) | 転身して銀行界に入る。 |
1931年(昭和6) | 六十三銀行東京支店次長を勤める。 |
1937年(昭和12) | 八十二銀行松本支店長となり、30余年間にわたり、本県財界の逸材として活躍する。 |
1947年(昭和22) | 公選村長として、初代烏川村長に当選し、烏川村長を2期8年間勤める。 |
戦後の混乱期に村財政を建て直すとともに、学校教育の確立を期して、六三制施行後すぐに組合立堀金中学校を新設する。 | |
1950年(昭和25) | 堰改修によって、戦後の食糧不足を打開するため、総務委員松島虎男と陳情請願を繰り返し、農林省の許可を得る。 |
1953年(昭和28) | 町村合併促進法の施行後、すぐに烏川・三田両村の合併を企図し、献身的な努力を払う。 |
1955年(昭和30)4月1日 | 堀金村が誕生し、初代村長に就任して、村政に力を注ぎ着々と成果を挙げる。 |
1957年(昭和32)2月 | 病のため、自ら村長の職を退く。 |
烏川土地改良区理事長として、水路の開発や開田事業等産業開発に、14年余にわたって尽力する。 | |
1968年(昭和43)4月 | 亡くなる。 |
参考文献
堀金村誌 | 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 | 安曇野市立図書館 |
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