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山口 誠象|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052243 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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山口 誠象
やまぐち せいぞう

八十二銀行松本支店長として30余年間、長野県財界で活躍。また、初代烏川村長(8年)、初代堀金村長を勤め、村政においても尽力する。

生年月日 1884年(明治17)
没年月日 1968年(昭和43)4月
関連地域 堀金(岩原)
職業・肩書 自治功労者
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 経済(経済)

 

経歴

堀金岩原に、村長山口吉人の長男として生れました。1905年(明治38)、早稲田大学政経科を卒業し、松本戊戌(ぼじゅつ)商業学校(現松商学園高校)教諭、南安曇郡書記を勤めました。
1915年(大正4)に、転身して銀行界に入り、1937年(昭和12)には、八十二銀行松本支店長となって、30余年間にわたり、本県財界の逸財として活躍しました。
1947年(昭和22)、公選村長として、初代烏川村長に当選し、烏川村長を2期8年間勤めました。戦後の混乱期に村財政を建て直すとともに、六三制施行後、すぐに組合立堀金中学校を新設しました。
1950年(昭和25)、堰改修によって、戦後の食糧不足を打開するため、総務委員松島虎男と陳情請願を繰り返し、農林省の許可を得ました。1953年(昭和28)に、町村合併促進法の施行後、すぐに烏川・三田両村の合併を企図し、献身的な努力を払いました。1955年(昭和30)4月1日、堀金村が誕生し、初代村長に就任して、村政に力を注ぎ着々と成果を挙げました。
1957年(昭和32)2月、病のため、自ら村長の職を退きました。その後は、烏川土地改良区理事長として、水路の開発や開田事業に、14年余にわたって尽力しました。1968年(昭和43)4月、亡くなりました。

略歴譜

1884年(明治17) 0歳 堀金岩原に、村長山口吉人の長男として生れる。
1905年(明治38)   早稲田大学政経科を卒業し、松本戊戌商業学校教諭となる。
1910年(明治43)   南安曇郡書記を勤める。
1915年(大正4)   転身して銀行界に入る。
1931年(昭和6)   六十三銀行東京支店次長を勤める。
1937年(昭和12)   八十二銀行松本支店長となり、30余年間にわたり、本県財界の逸材として活躍する。
1947年(昭和22)   公選村長として、初代烏川村長に当選し、烏川村長を2期8年間勤める。
    戦後の混乱期に村財政を建て直すとともに、学校教育の確立を期して、六三制施行後すぐに組合立堀金中学校を新設する。
1950年(昭和25)   堰改修によって、戦後の食糧不足を打開するため、総務委員松島虎男と陳情請願を繰り返し、農林省の許可を得る。
1953年(昭和28)   町村合併促進法の施行後、すぐに烏川・三田両村の合併を企図し、献身的な努力を払う。
1955年(昭和30)4月1日   堀金村が誕生し、初代村長に就任して、村政に力を注ぎ着々と成果を挙げる。
1957年(昭和32)2月   病のため、自ら村長の職を退く。
    烏川土地改良区理事長として、水路の開発や開田事業等産業開発に、14年余にわたって尽力する。
1968年(昭和43)4月 83歳 亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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