山口 蒼輪|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052174 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
山口 蒼輪
やまぐち そうりん
日本美術院院友となる。自然を新しい感覚でとらえ、細密な画法によって独得な画風を確立する。
生年月日 | 1913年(大正2) |
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没年月日 | 1950年(昭和25)6月26日 |
関連地域 | 堀金(岩原) |
職業・肩書 | 日本画家 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
堀金岩原に生まれ、本名を肇といいました。堀金小学校を経て、附属松本小学校を抜群の成績で卒業した後、絵を赤羽雪邦、書を小穴喜一、修身・国語・漢文を浅井洌に2年間学びました。1928年(昭和3)に上京して、日本美術学校(現日本美術専門学校)の予科に入学し、続いて本科に通い、古画・装飾画の模写研究を始め、自然描写に魂を打ち込んで勉強しました。在学中、第一作の大額面の「草」が、当時わが国最高の権威であった日本美術院展覧会に入選しました。続いて、院展春の試作展か秋の本展のどちらかに毎年入選しました。1935年(昭和10)、日本美術院の院友に推挙されました。1940年(昭和15)には、精魂を傾けて描いた作品「芭蕉」が、紀元2600年奉祝画展推薦になり、外務省に買い上げられ、アメリカ大使館に納められました。戦後、画友と銀嶺会や春風会を結成し、中信地区や全県の日本画の発展のために尽しました。1950年(昭和25)、37歳で病死しました。
略歴譜
1913年(大正2) | 堀金岩原に、銀行家山口誠象の長男として生まれる。本名を肇という。 |
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堀金小学校を経て、附属松本小学校を抜群の成績で卒業する。 | |
絵を赤羽雪邦、書を小穴喜一、修身・国語・漢文を浅井洌に2年間学ぶ。 | |
1928年(昭和3) | 上京し日本美術学校の予科に入学し、続いて本科に通い、古画・装飾画の模写研究を始め、自然描写に魂を打ち込んで勉強する。 |
1929年(昭和4) | 中村岳陵教授に認められて内弟子となる。 |
1930年(昭和5) | 蒼野社画塾に入り、岳陵から夜明けの日輪にたとえて「蒼輪」の号を与えられる。 |
在学中、第一作の大額面の「草」が、当時わが国最高の権威であった日本美術院展覧会に入選する。 | |
続いて、院展春の試作展か秋の本展のどちらかに毎年入選する。 | |
1935年(昭和10) | 日本美術院の院友に推挙される。 |
1940年(昭和15) | 精魂を傾けて描いた作品「芭蕉」が、紀元2600年奉祝画展推薦になり、外務省に買い上げられ、アメリカ大使館に納められる。 |
師の中村画伯が、「蒼輪の画面は清く、構想は清新、色彩美しく、秀才型の青年画家」と評す。 | |
財界人渡辺英造が主催した成蹊会の、年2、3回開かれる画展で好評を博す。 | |
戦後、野本文雄ら画友数名と、松本で銀嶺会を結成、また保尊良朔ら中信地区日本画家と春風会をおこす。銀嶺会は、後に中信美術会を経て信州美術会となる。 | |
1950年(昭和25) | 中信美術会の委員となって、同会日本画部の発展に尽す。全信州展(現長野県美術展)の審査員として活躍する。 |
1950年(昭和25)6月26日 | 病死。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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堀金村誌 | 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 | 安曇野市図書館 |