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山田 実|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052242 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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山田 実
やまだ みのる

農業の傍ら郷土文化の顕彰に大きく貢献。

生年月日 1882年(明治15)
没年月日 1961年(昭和36)
関連地域 穂高(上原)
職業・肩書 氏子総代
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(学術思想)

 

経歴

穂高上原に生れました。穂高小学校を卒業後、智学院に入塾し、美村飯島操に漢学を学びました。家業の農耕に精魂を傾け、上原の自然を友として自学自習し、想像力に富み、芸術味豊かな風韻気格(ふういんきかく)が形成されました。1904年(明治37)、中国東北で衛生兵として従軍しました。帰還後、烏川用水担当人に選ばれ、以来40年間名担当人として務めました。1907年(明治40)、穂高神社氏子総代に選ばれ、社格昇進に40年間尽力し、「穂高神社お舟飾り」に山田流の型を創出しました。また、忠魂碑奉安殿・画人明花の碑・一口付創始者喜悦宗匠の碑等の設計に携わったほか、栗尾山満願寺観音堂壁額・両部曼陀羅(まんだら)の復元、満願寺檀徒総代でも功績を残しました。穂高町会議員、南安曇郡誌編纂委員等の要職も勤めました。

略歴譜

1882年(明治15) 0歳 穂高上原に生れる。
    穂高小学校を卒業する。 
    智学院に入塾し、美村飯島操に漢学を学ぶ。
    家業の農耕に精魂を傾け、上原の自然を友として自学自習し、想像力に富み、芸術味豊かな風韻気格が形成される。
1904年(明治37)   中国東北で衛生兵として従軍する。
    帰還後、烏川用水担当人に選ばれ、以来40年間名担当人を務める。
1907年(明治40) 25歳 穂高神社氏子総代に選ばれ、社格昇進に40年間尽力し、「穂高神社お舟飾り」に山田流の型を創出した。
    忠魂碑奉安殿・画人明花の碑・一口付創始者喜悦宗匠の碑等の設計に携わる。
    栗尾山満願寺観音堂壁額・両部曼陀羅の復元、満願寺檀徒総代でも功績を残す。
    穂高町会議員、南安曇郡誌編纂委員等を勤める。
1961年(昭和36) 79歳 亡くなる。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市立図書館

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