山本 安曇|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052244 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
山本 安曇
やまもと あづみ
鋳金美術家。碌山作品をブロンズ化。研成義塾で学ぶ。
生年月日 | 1885年(明治18) |
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没年月日 | 1945年(昭和20)3月4日 |
関連地域 | 穂高(立足) |
職業・肩書 | 彫金家 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
穂高立足に生れました。研成義塾に入り、井口喜源治の影響を深く受けて、志を立てて東京美術学校(現東京藝術大学)鋳金科に入りました。古典派の香取秀真の信望が厚く、また同郷の先輩荻原碌山の影響を多く受けました。1912年(明治45)、東京美術学校鋳金科を卒業しました。1932年(昭和7)には、第13回帝国美術院展覧会に「盤(果物盛器)」を出品し、審査員となりました。1936年(昭和11)、第1回帝展で「三蔵法師」が文部省指定買上げとなりました。同年に文部省美術展覧会鑑査展に委員を委嘱され、「鳥付松文花瓶」を出品しました。その後、文部省美術展覧会に審査員として数多く出品し、無鑑査となりました。1945年(昭和20)3月4日、東京駒込の自宅前で、空襲により亡くなりました。
略歴譜
1885年(明治18) | 穂高立足に生れる。 |
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研成義塾に入り、井口喜源治の薫陶を受け、志を立てて東京美術学校鋳金科に入る。 | |
古典派の香取秀真の信頼が厚く、また同郷の先輩荻原碌山の影響を多く受ける。 | |
1912年(明治45) | 東京美術学校鋳金科を卒業する。 |
1927年(昭和2) | 第8回帝国美術院展に出品した「三光(朧銀燭台)」が初入選となる。 |
1932年(昭和7) | 第13回帝国美術院展覧会に「盤(果物盛器)」出品し、審査員となる。 |
1936年(昭和11) | 第1回帝展で「三蔵法師」が文部省指定買上げとなる。 |
1936年(昭和11) | 文部省美術展覧会鑑査展に委員を委嘱される。「鳥付松文花瓶」を出品する。 |
1937年(昭和12) | 第1回文部省美術展覧会で「金属酒仙」が無鑑査となる。 |
1942年(昭和17) | 第5回文部省美術展覧会で、審査員として「観月置物」を出品する。 |
1943年(昭和18) | 第6回文部省美術展覧会で、元審査員として「南方礼讃壺」を出品する。 |
1944年(昭和19) | 戦争特別美術展覧会で、「反撃図花瓶」が無鑑査となる。 |
1945年(昭和20)3月4日 | 東京駒込の自宅前で、空襲により亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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穂高町誌 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市立図書館 |
安曇野の美術 | 丸山楽雲/編 | 安曇野市立図書館 |
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展 | 総合遺作展実行委員会/編 |