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自由民権運動のリーダー 松沢 求策|安曇野市ゆかりの先人たち

記事ID:0051979 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

自由民権運動のリーダー 松沢求策

【まつざわ きゅうさく】 1855年から1887年 安曇野市穂高(等々力町)生まれ。

高島章貞に学ぶ。国会開設運動のリーダーとして活躍。奨匡社を設立し国会期成同盟で全国的政党の結成を提案、自由党準備会の役員として尽力。

自由民権に死力を尽くし
後世につなげた想い

明治の風情を残した穂高の街並(左は松沢の生家)
明治の風情を残した穂高の街並(左は松沢の生家)

明治10年代は自由民権運動という運動が華々しく繰り拡げられました。ヨーロッパやアメリカの政治のやり方に学び、国民がおこし、現在の国会や憲法、政党の民主政治の基礎を築いた運動でした。
全国から多くの国民が東京にやってきて、政府に国会を開けと要求をしたのですが、その運動をリードしたのが、長野県の代表だった穂高出身の松沢求策でした。
この時の新聞を見ると、松沢たちの動きがほぼ毎日くらいに報じられていて、25歳の安曇野の青年は大勢の運動のリーダーたちのなかでも、とりわけ有名となりました。

 

松沢たちの運動は、ほかの運動とちがって、もともと国民が持っている請願権という権利を政府に認めさせながら国会を開かせようという、難しいが筋の通った運動でしたので、多くの国民を奮い立たせ、運動を全国的なものに盛り上げ成功させるのに大きく貢献をしました。しかし、それだけに政府には激しく弾圧され、2回も牢獄に入れられ、2回目の入獄中、わずか32歳の若さでこの世を去らなければなりませんでした。

 

国会開設ヲ上願スルノ書
国会開設ヲ上願スルノ書

思う事つくしもはてず
さそはれて
かへらぬ旅に
心のこして

辞世の歌には、国会議員になり国民の幸せになる国をつくる念願がかなわぬ無念さが、込められています。
それから2年後憲法が制定され、翌年国会が開かれました。憲法は天皇が主権で、国民の権利は大幅に制限されたものでしたが、松沢らが強く望んだ請願権はしっかりと認められ、その後の国民の運動の武器となりました。
それから松沢の名前は忘れられてゆきましたが、この「みらい」の場所にあった穂高小学校では、生徒がよく集まる講堂に、松沢の一枚の肖像写真が掲げられてありました。自由がまったくなくなった太平洋戦争の時期にも、この自由の戦士の写真は掲げられていました。
1974年(昭和49年)に松沢求策の顕彰会ができたとき、こぞって参加してくれたのは、この写真を見て育った人たちでした。
写真を彫像にしたものが、いま、この「みらい」の東の公園に立っています。
まっすぐに物をみつめ、激しく粘り強く志を貫こうとする青年の肖像が、そこにあります。拾ケ堰の堰守の仕事を通して農民の暮らしを知り、多田加助に学び、それを活かした活動をし、安曇野の心をつかんでいた肖像が--。

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