狩野 梅玄|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052181 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
狩野 梅玄
かのう ばいげん
狩野派の画家。狩野梅笑の門に入り、やがて江戸御絵所画員となり、幾多の傑作を残す。
生年月日 | 不詳 |
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没年月日 | 不詳 |
関連地域 | 豊科(細萱) |
職業・肩書 | 日本画家 |
活躍年 | 江戸時代以前 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
姓は小口氏、名は周蔵、藤原賢安とも藤原梅玄とも称しました。
豊科細萱の洲波神社東方に「周蔵屋敷」という場所があり、そこに住んでいたといわれています。穂高白金出身の狩野梅二に学び、長じて梅二と同様に江戸に出て、当時、名の高かった狩野梅笑に入門しました。梅笑に認められて狩野梅玄の画号を許され、やがて江戸御絵所画員となりました。1819年(文政2)、州波神社の奉額を作成しました。このほかに、明科宗林寺鐘楼の天井絵「雲龍の図」、浅川貞之氏所蔵の大作「琴棋書画図屏風」(六曲一双)等を作成しました。作品等から総合すると、狩野梅玄は、文化・文政(1804から1830年)頃に活躍した狩野派の画家で、襖絵・屏風絵等を主とした室内装飾画の絵師でした。また、俳句・茶の湯にも通じていました。
略歴譜
生年不詳 | 0歳 | 生れる。 |
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姓は小口氏、名は周蔵、藤原賢安とも藤原梅玄とも称す。 | ||
豊科細萱の洲波神社東方に「周蔵屋敷」という場所があり、そこに住んでいたといわれる。 | ||
穂高白金出身の狩野梅二に学ぶ。 | ||
長じて、梅二と同様に江戸に出て、当時、名の高かった狩野梅笑に入門する。 | ||
認められて狩野梅玄の画号を許され、やがて江戸御絵所画員となる。 | ||
1819年(文政2) | 州波神社の奉額を作成する。 | |
没年不詳 | 亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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豊科町誌 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
安曇野の美術 | 丸山楽雲/編 | 安曇野市立図書館 |