小穴 五郎|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052185 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
小穴 五郎
おあな ごろう
田沢街道を開通させる。高遠の中村元起塾に学ぶ。
生年月日 | 1855年(安政2) |
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没年月日 | 1918年(大正7) |
関連地域 | 豊科(踏入) |
職業・肩書 | 政治家 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 政治(政治) |
経歴
豊科踏入に生まれました。1870年(明治3)、諏訪の武居家に学びました。翌年、伊那高遠の中村塾に入学し、後年陸軍大将となった神尾光臣と親交を深めました。1873年(明治6)には、東京で神尾光臣と共に、当時「江戸川の聖者」といわれた中村正直(敬宇)の私塾同人社に入りました。その翌年、穂高の研成学校で漢学を講じました。1881年(明治14)、南穂高村議会議員となり、南安曇郡役所書記に採用されました。1883年(明治16)に民選戸長制布告があり、南穂高戸長に選出されました。1889年(明治22)に町村制施行となり、南穂高村初代村長に選出されました。その後、郡会議員・郡参事会員・県会議員に当選し、学校・役所等の新築、道路・河川・堤防等の改修、新教育の振興等に力を注ぎました。
略歴譜
1855年(安政2) | 豊科踏入の小穴新四郎の次男に生まれる。 |
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1870年(明治3) | 諏訪の武居家に学ぶ。 |
1871年(明治4) | 伊那高遠の中村塾に入学し、後年陸軍大将となった神尾光臣と親交を深める。 |
1873年(明治6) | 東京で神尾光臣と共に、当時「江戸川の聖者」といわれた中村正直(敬宇)の私塾同人社に入る。 |
1874年(明治7) | 穂高の研成学校で漢学を講義する。 |
1881年(明治14) | 南穂高村会議員となる。南安曇郡役所書記に採用される。 |
1883年(明治16) | 民選戸長制布告により、南穂高戸長に選出される。 |
1889年(明治22) | 町村制施行に際し、南穂高村初代村長に選出される。 |
1891年(明治24) | 郡会議員・郡参事会員に当選する。 |
1894年(明治27) | 県会議員に当選、豊科町ほか四か村組合高等小学校の組合長となり、新教育の振興等に力を注ぐ。 |
1899年(明治32) | 再度、郡会議員・郡参事会員になり、議長に就任する。田沢街道の開通、田沢橋の架設に尽瘁(じんすい)する。 |
1918年(大正7) | 死去。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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豊科町誌 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |