小川 大系|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052192 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
小川 大系
おがわ たいけい
彫刻家。穂高神社の飾り物制作から文展・日展作家になる。郷土の碌山・山本安曇・松沢求策の顕彰活動に尽力。北村西望に学ぶ。「中田又重郎」が絶作。
生年月日 | 1898年(明治31)11月25日 |
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没年月日 | 1980年(昭和55)8月26日 |
関連地域 | 穂高(等々力) |
職業・肩書 | 彫刻家 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
穂高等々力に生れ、本名は孝義(もとよし)といいました。農業の傍ら表具師の修行をし、穂高神社の飾り物製作に才能を発揮しました。35歳の時、彫刻家への念やみがたく、上京しました。山本安曇に才能を認められ、北村西望(文化勲章受賞・長崎の平和像作者)に入門し、門人随一と評価されました。代表作に、安曇野の男をテーマにした「投網」と練兵場に取材した「馬」の連作があります。図案や建築設計にも才を発揮し、北村西望の別邸の設計も行いました。その後は、文展・日展等官展系作家として活躍しました。1941年(昭和16)には文展無鑑査となりました。 戦災でアトリエが焼失し、郷里へ疎開、戦後は郷里にとどまりました。碌山の顕彰活動の先頭に立ち、碌山美術館建設計画の中で、具体的な設計図を作る等活躍しました。
略歴譜
1898年(明治31)11月25日 | 穂高(等々力)に生まれる。本名は孝義という。 |
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農業の傍ら表具師の修行をする。 | |
1929年(昭和4) | 穂高神社の飾り物製作でも知られ、「元寇」は人形作りの上でひとつの頂点を極めた作品である。 |
1933年(昭和8) | 彫刻家への念やみがたく、上京する。 |
山本安曇に才能を認められ、北村西望に入門し、門人随一と評価される。 | |
図案や建築設計にも才を発揮し、西望の別邸の設計も行い、文展・日展等官展系作家として活躍する。 | |
1934年(昭和9) | 第15回帝国美術展に、「天空ヲユク」が初入選する。 |
1939年(昭和14) | 第3回文部省美術展に、「鱒投網」が入選する。 |
1941年(昭和16) | 文展無鑑査となる。 |
戦災でアトリエが焼失し、郷里へ疎開。戦後は中央の彫刻界の在り方に共鳴できず、郷里にとどまる。 | |
碌山の顕彰活動の先頭に立ち、碌山美術館建設計画の中で具体的な設計図を作る等活躍する。 | |
1980年(昭和55)8月26日 | 自宅における美術館の構想中、彫刻家上条俊介との「播隆上人」合作の中での「中田又重郎」制作中に死去。 |
参考文献
穂高町誌 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |
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安曇野の美術 | 丸山楽雲/編 | 安曇野市図書館 |
作品集 小川大系の世界 | 1998年 郷土出版社 | 安曇野市図書館 |
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展 | 総合遺作展実行委員会/編 |