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小川 大系|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052192 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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小川 大系
おがわ たいけい

彫刻家。穂高神社の飾り物制作から文展・日展作家になる。郷土の碌山・山本安曇・松沢求策の顕彰活動に尽力。北村西望に学ぶ。「中田又重郎」が絶作。

生年月日 1898年(明治31)11月25日
没年月日 1980年(昭和55)8月26日
関連地域 穂高(等々力)
職業・肩書 彫刻家
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(芸術)

 

経歴

穂高(等々力)に生れ、本名は孝義(もとよし)といいました。農業の傍ら表具師の修行をし、穂高町の飾り物に才能を発揮しました。35歳の時、彫刻家への念やみがたく、上京しました。山本安曇に才能を認められ、北村西望(文化勲章受賞・長崎の平和像作者)に入門し、門人随一と評価されました。代表作は、安曇野の男をテーマにした「投網」 と練兵場に取材した「馬」の連作があります。図案や建築設計にも才を発揮し、北村西望の別邸の設計も行いました。その後は、文展・日展等官展系作家として活躍しました。1941年(昭和16)には文展無鑑査となりました。 戦災でアトリエが焼失し、郷里へ疎開し、戦後は郷里にとどまり、碌山の顕彰活動の先頭に立ち、碌山美術館建設計画の中で、具体的な設計図を作る等活躍しました。

略歴譜

1898年(明治31)11月25日 0歳 穂高(等々力)に生れる。本名は孝義という。
    農業の傍ら表具師の修行をする。 
1929年(昭和4)   穂高神社の飾り物製作でも知られ、「元寇」は人形作りの上でひとつの頂点を極めた作品である。
1933年(昭和8) 35歳 彫刻家への念やみがたく、上京する。
    山本安曇に才能を認められ、北村西望に入門し、門人随一と評価される。
    図案や建築設計にも才を発揮し、西望の別邸の設計も行い、文展・日展等官展系作家として活躍する。
1934年(昭和9)   第15回帝国美術展に、「天空ヲユク」が初入選する。     
1939年(昭和14)   第3回文部省美術展に、「鱒投網」が入選する。
1941年(昭和16)   文展無鑑査となる。
    戦災でアトリエが焼失し、郷里へ疎開。戦後は中央の彫刻界の在り方に共鳴できず、郷里にとどまる。
    碌山の顕彰活動の先頭に立ち、碌山美術館建設計画の中で具体的な設計図を作る等活躍する。
1980年(昭和55)8月26日 81歳 自宅における美術館の構想中、彫刻家上条俊介との「播隆上人」合作の中での「中田又重郎」制作中に、亡くなる。

参考文献

穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館
安曇野の美術 丸山楽雲/編 安曇野市立図書館
作品集 小川大系の世界 1998年 郷土出版社 安曇野市立図書館
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展 総合遺作展実行委員会/編  

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