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小林 喜作|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0027007 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月10日更新

小林 喜作の写真

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小林 喜作
こばやし きさく

北アルプスの名猟師。山案内人。槍ヶ岳登山の普及に尽力。

生年月日 1875年(明治8)
没年月日 1923年(大正12)
関連地域 穂高(牧)
職業・肩書 北アルプスの名猟師・山案内人。
活躍年 明治時代
ゆかりの分野 社会(社会事業)

 

経歴

穂高牧に生れました。17歳で猟を始めたと言われています。この年、同郷の先輩、為右衛門老の案内で、槍ヶ岳の頂上に初めて立った後、猟のため北アルプス一帯を歩き回り、山道に精通しました。地図作製の為の測量官を奥地に案内して、測量にも参加しました。その後、多くの著名人の案内をし、登頂を成功へと導きました。当時、中房温泉を起点とした槍ヶ岳への縦走路は、4日も5日もかかっていました。当時の中房温泉経営者の百瀬彦一郎の依頼を受けた喜作は、猟でよく知っている、大天井から分岐して、赤岩岳・西岳を経て水俣乗越に下り、そこから東鎌尾根を登って、たった1日で楽に行ける新登山路の開拓に尽力しました。後にこの道は、「喜作新道」とも呼ばれ、多くの登山者に親しまれています。

略歴譜

1875年(明治8) 0歳 穂高牧に生れる。
    地図作製の為の測量官を奥地に案内し、測量にも参加した。槍ヶ岳に、60キロある三角点標石(御影石)を背負い上げた。
1912年(大正1)   植物学者辻村伊助を、常念から餓鬼岳へ案内する。
1918(大正7)から1922年(大正11)   長男一男と「喜作新道」の開拓に携わる。松方三郎は、喜作があたかも銀座あたりを気楽に歩くように歩いたことから、「アルプス銀座」と名付けた。
1922年(大正11)3月   積雪期に、槇有恒・松方三郎・大島亮吉等の槍ヶ岳初登頂を案内し、成功させた。
1923年(大正12)   出猟中、鹿島槍ヶ岳棒小屋沢で、長男一男と共に雪崩により亡くなる。
1960年(昭和35)   大天井岳の岩盤に、小川大系の作によるレリーフが設置された。

参考文献

長野県歴史人物大辞典 郷土出版/発行 安曇野市立図書館
山本茂実全集 第三巻 喜作新道 郷土出版/発行 安曇野市立図書館
写真:思い出のアルバム安曇 郷土出版/発行 安曇野市立図書館
梅干野成央ら 中房温泉の経営者による戦前期の山小屋建設とその立地計画 日本建築学会計画系論文集 第77巻第681号

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