小林 喜作|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052195 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新
小林 喜作
こばやし きさく
喜作新道を開設した山案内人。北アルプスの名猟師。槍ヶ岳登山の普及に尽力。
生年月日 | 1875年(明治8) |
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没年月日 | 1923年(大正12) |
関連地域 | 穂高(牧) |
職業・肩書 | 北アルプスの名猟師・山案内人。 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 社会(社会事業) |
経歴
穂高牧に生れました。17歳で猟を始めたと言われています。この年、同郷の先輩、為右衛門老の案内で、槍ヶ岳の頂上に初めて立った後、猟のため北アルプス一帯を歩き回り、山道に精通しました。地図作製の為の測量官を奥地に案内して、測量にも参加しました。その後、多くの著名人の案内をし、登頂を成功へと導きました。当時、中房温泉を起点とした槍ヶ岳への縦走路は、4日も5日もかかっていました。そこで、喜作は、自分が猟でよく知っている、大天井から分岐して、赤岩岳・西岳を経て水俣乗越に下り、そこから東鎌尾根を登って、たった1日で楽に行ける、いわゆる「喜作新道」を開拓しました。息子の一男と二人で開拓したこの道は、「アルプス銀座」と呼ばれ、多くの登山者に親しまれています。
略歴譜
1875年(明治8) | 0歳 | 穂高牧に生れる。 |
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地図作製の為の測量官を奥地に案内し、測量にも参加した。槍ヶ岳に、60キロある三角点標石(御影石)を背負い上げた。 | ||
1912年(大正1) | 植物学者辻村伊助を、常念から餓鬼岳へ案内する。 | |
1918(大正7)から1922年(大正11) | 長男一男と「喜作新道」を開拓する。松方三郎は、喜作があたかも銀座辺りを気楽に歩くように歩いたことから、「アルプス銀座」と名付けた。 | |
1922年(大正11)3月 | 積雪期に、槇有恒・松方三郎・大島亮吉等の槍ヶ岳初登頂を案内し、成功させた。 | |
1922年(大正11) | 同年、殺生小屋(現殺生ヒュッテ)を開業する。 | |
1923年(大正12) | 出猟中、鹿島槍ヶ岳棒小屋沢で、長男一男と共に雪崩により亡くなる。 | |
1960年(昭和35) | 大天井岳の岩盤に、小川大系の作によるレリーフが設置された。 |
参考文献
長野県歴史人物大辞典 | 郷土出版/発行 | 安曇野市立図書館 |
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山本茂実全集 第三巻 喜作新道 | 郷土出版/発行 | 安曇野市立図書館 |
写真:思い出のアルバム安曇 | 郷土出版/発行 | 安曇野市立図書館 |
ウィキペディア「槍ヶ岳」 |