小林 章|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052197 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
小林 章
こばやし あきら
彫刻家。石井鶴三の門人。院展に連続出品し、日本美術院院友となり、日展招待という確固たる地位を築き、日本の彫刻界に貢献する。
生年月日 | 1903年(明治36)2月12日 |
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没年月日 | 1977年(昭和52)3月13日 |
関連地域 | 穂高(塚原。豊科に転居。) |
職業・肩書 | 彫刻家 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
穂高塚原に生まれました。画家小林邦の兄に当ります。松本で歯科技工士を経験し、この頃から石膏像の制作に取り組みました。荻原碌山の作品や中村不折・柳敬助との出会いを機に、彫刻家への意を決したといわれています。上京して川端画学校で素描を学び、彫刻の道を歩みました。師の石井鶴三の影響を受けて、内面に厳しさを秘めた構築性の強い作風となりました。エジプトの古彫刻に心をひかれ、写実ながらプリミチィブな内面性の強い作風となりました。第14回院展以降、45回院展まで連続出品を続け、日本美術院院友となり、日展招待という確固たる地位を築きました。また、日府展・太子展でも活躍したほか、日府展理事として参画し、日本の彫刻界に貢献しました。1977年(昭和52)に亡くなりました。
略歴譜
1903年(明治36)2月12日 | 穂高塚原に生まれる。洋画家小林邦の兄に当る。 |
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松本で歯科技工士を経験し、ゲーテの胸像の試作を石膏像の制作で取組む。 | |
荻原碌山の作品と中村不折・柳敬助との出会いを機に、彫刻家への意を決す。 | |
1922年(大正11) | 上京して川端画学校で素描を学び、彫刻の道を歩む。 |
師の石井鶴三の影響を受けて、内面に厳しさを秘めた構築性の強い作風となる。 | |
1927年(昭和2) | 第14回院展の「立つ女」以降、45回院展まで連続出品を続ける。 |
1941年(昭和16) | 松本市で、「小林章素描彫刻展覧会」を開催する。 |
1942年(昭和17) | 第30回院展に、「誕生」・「袖を持てる少女」を出品、受賞したことで、次回から無鑑査となる。 |
1950年(昭和25) | 豊科に転居する。 |
1969年(昭和44) | 長野県彫刻工芸会を結成し、会長を務める。 |
1977年(昭和52) | 死去。 |
1979年(昭和54)3月13日 | 彫刻56点、絵画9点が、豊科町郷土博物館(現安曇野市郷土博物館)に寄贈される。 |
参考文献
穂高町誌 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |
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豊科町誌 | 豊科町誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
安曇野の美術 | 丸山楽雲/編 | 安曇野市図書館 |
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展 | 総合遺作展実行委員会/編 |