松岡 好一|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052199 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
松岡 好一
まつおか こういち
南方開発に尽力。松沢求策の従弟で、求策の活動に協力。
生年月日 | 1865年(慶応1) |
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没年月日 | 1917年(大正6) |
関連地域 | 三郷(二木) |
職業・肩書 | 政治運動家 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 経済(海外発展) |
経歴
1865年(慶応1)、三郷二木に生れました。東京で松沢求策と会い、国会請願運動を展開しました。1883年(明治16)に小笠原島に渡り、小学校の教師となりました。日本の人口問題に苦慮し、南方移民方策をとりました。南洋航海後に、シドニーで在留邦人の相談相手をしている中で領事館の必要性を感じ、政府に設置要請をするために帰国。領事館はタウンスビルに設置されました。木曜島で日本居留民団長となり、香港で宮崎滔天(みやざきとうてん)・平山周等と中国問題を討議し、旅館「日本館」を経営し日中親善に努めました。台湾では総督の依嘱を受け、機密通信事業に従事して政治活動を行いました。1916年(大正5)、日刊新聞「南国報」を発行するため、一時帰国しましたが、翌年の1917年(大正6)、神戸にて病気のため亡くなりました。
略歴譜
1865年(慶応1) | 三郷二木に生れる。 |
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芝の温知学舎で漢学を学び、後に東洋自由新聞社の記者となる。 | |
松沢求策と会い、国会請願運動を展開する。 | |
1883年(明治16) | 小笠原島に渡り、小学校の教師となる。 |
日本の人口問題に苦慮し、南方移民方策を立てる。 | |
南洋航海後、シドニーで在留邦人の相談相手をしている中で領事館の必要性を感じて政府に設置を要請。領事館がタウンスビルに設置される。 | |
木曜島に渡り、日本居留民団長となる。 | |
1897年(明治30) | 香港に渡り、宮崎滔天(みやざきとうてん)・平山周等と中国問題を討議する。 |
旅館「日本館」を経営して日中親善に専念する。南京にその功を讃えた碑が建つ。 | |
台湾総督の依嘱を受け、機密通信事業に従事して政治活動を行う。 | |
1916年(大正5) | 日刊新聞「南国報」を発行するため、一時帰国する。 |
1917年(大正6) | 神戸にて病気のため亡くなる。 |
参考文献
南安曇郡誌第三巻下 | 南安曇郡誌改訂編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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三郷村誌1 | 三郷村誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |