上原 良司|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052204 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
上原 良司
うえはら りょうじ
特攻隊員として出撃前夜に書き残した「遺書」が、敗戦後のわが国民に自由主義の国づくりを訴えたメッセージとして高く評価されている。
生年月日 | 1922年(大正11)9月27日 |
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没年月日 | 1945年(昭和20)5月11日 |
関連地域 | 穂高(耳塚。池田町出身。) |
職業・肩書 | 軍人 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(文芸) |
経歴
池田町中鵜鵜山に、医師をしている寅太郎の三男として生まれました。それから九州小倉・台湾と父親の転勤に伴い転任し、穂高耳塚に移り、文化的な雰囲気の中に育ちました。二人の兄に続いて、1935年(昭和10)に松本中学校(現松本深志高等学校)に入学し、1940年(昭和15)に卒業して、慶応義塾大学経済学部予科に入学、その後、本科経済学部に進みました。しかし、1943年(昭和18)学徒出陣により松本第50連隊(歩兵150連隊)に入隊し、学業の道は断たれました。1944年(昭和19)、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に入校後、舘林教育隊で飛行操縦訓練を始め、極限の生活を体験し、自由主義の正しさを確信しました。そして、1945年(昭和20)陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として沖縄嘉手納湾上の米海軍機動部隊に突入し、22歳の若さで戦死しました。
略歴譜
1922年(大正11)9月27日 | 池田町中鵜鵜山で、医師の父寅太郎・母よ志江の三男として生れる。 |
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九州小倉・台湾と父親の転勤に伴い転任し、有明耳塚に移り、成長する。 | |
1935年(昭和10) | 松本中学校に入学する。 |
1940年(昭和15) | 松本中学校を卒業する。 |
1941年(昭和16) | 慶応義塾大学予科に入学する。 |
1943年(昭和18) | 慶応義塾大学予科を繰上げ卒業し、同大学経済学部に進学する。 |
1943年(昭和18)12月1日 | 学徒出陣により、陸軍松本第50連隊(歩兵150連隊)へ入隊する。 |
1944年(昭和19)2月9日 | 熊谷陸軍飛行学校相模教育隊へ入校する。 |
1944年(昭和19)3月24日 | 舘林教育隊にて飛行操縦訓練をする。 |
1944年(昭和19)7月20日 | 熊谷陸軍飛行学校を卒業する。 |
1945年(昭和20)5月11日 | 陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として、沖縄嘉手納湾上の米海軍機動部隊に突入し、戦死する。 |
参考文献
「きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記」 |
日本戦没学生記念会編 |
安曇野市図書館 |
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新版「あゝ 祖国よ 恋人よ きけ わだつみのこえ 上原良司」 | 編者 中島博昭 | 安曇野市図書館 |