上嶋 貞巖|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052206 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
上嶋 貞巖
かみじま ていがん
小倉の浄心寺再興。
生年月日 | 1852年(嘉永5) |
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没年月日 | 1901年(明治34) |
関連地域 | 三郷(北小倉。松本市梓川出身。) |
職業・肩書 | 住職 |
活躍年 | 明治時代 |
ゆかりの分野 | 文化(宗教) |
経歴
1852年(嘉永5)、梓川下角影に生まれました。幼い時から浄心寺に弟子入りし、小笠原貞雄について仏道に励みました。1872年(明治5)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により小笠原貞雄は、開基の小笠原貞政の位牌を持って岐阜の高山へ逃れ、後に山梨県の住職に迎えられました。そこで貞巖は、主な仏像を上嶋家の土蔵に預け、自らは内仏本尊を背負って四賀村の浄雲寺まで行って預け、穴沢部落の中の堂に住んで寺子屋を開き、近隣の子供を集めて教えました。1885年(明治18)、迎えられて浄心寺の再興の仕事に取り掛かりました。旧檀家232名を糾合し、旧寺の南方宮の久保に敷地900坪を確保しました。本堂は本山や県庁へも請願したことにより、氷室の福聚院の建物を購入し、庫裡・客殿の建設を急ぎました。寺の基本財産として、山林約2町歩を確保し、旧檀家が復帰したほか松本方面からの檀家もあり、その数800を数えました。
略歴譜
1852年(嘉永5) | 梓川下角影に生まれる。 |
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幼い時から浄心寺に弟子入りし、小笠原貞雄について仏道に励む。 | |
1872年(明治5) | 廃仏毀釈により、小笠原貞雄は、高山へ行った後に山梨県の住職に迎えられる。 |
仏像を上嶋家の土蔵や四賀の浄雲寺に預け、穴沢部落の中の堂に住んで寺子屋を開き、近隣の子供を集めて教える。 | |
和田の無極寺吉水豊山住職について修業する。 | |
1885年(明治18) | 迎えられて浄心寺の再興の仕事に取り掛かり、近くの青木堂に身を寄せる。 |
旧寺の南方宮の久保の敷地900坪と本堂用の氷室の福聚院の建物を購入し、庫裡・客殿の建設を急ぐ。 | |
寺の基本財産として、山林約2町歩を確保し、本山や県庁へも請願し、旧檀家が復帰するようになる。 | |
説教・読経等が好評で、梓川や松本方面からも檀家となり、その数800を数える。 | |
1901年(明治34) | 死去。 |
参考文献
三郷村誌1 | 三郷村誌編纂会/編 | 安曇野市図書館 |
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