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植原 悦二郎|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052207 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年10月6日更新

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植原 悦二郎
うえはら えつじろう

天皇主権の明治憲法下で、国民主権の民主主義を唱えた自治功労者。衆議院議員を経て、太平洋戦争後は国務大臣になる。

生年月日 1877年(明治10)
没年月日 1962年(昭和37)12月2日
関連地域 三郷(中萱)
職業・肩書 自治功労者
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 政治(政治)

 

経歴

三郷中萱に生れました。1899年(明治32)に渡米し、ワシントン州立大学卒業後、ロンドン大学で4年間学び、政治学博士号(論文「日本の政治発展史」)を得て帰国し、高校・大学で教鞭を執りました。1917年(大正6)に衆議院議員に初当選し、政界に入りデモクラシーの具現と議会政治の建設に精魂を打ち込みました。また衆議院議員在職中に、国務大臣・内務大臣等を歴任し、1949年(昭和24)に予算委員長、1955年(昭和30)に外務委員長となり、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席しました。翌年には英国上下両院議長招待に対し、衆参両院議員団長として訪英しました。その後、日ソ共同宣言等の特別委員長・国連第11回総会日本政府代表顧問となりました。1961年(昭和36)7から8月には、台湾・沖縄を視察、12月には、齢84歳で、英領フィジー島・濠州ニュージーランドを歴訪しました。

略歴譜

1877年(明治10) 三郷中萱に生れる。
  ワシントン大学卒業後、ロンドン大学で4年間研さんする。
  政治学博士号(論文「日本の政治発展史」)を得て帰国する。
1917年(大正6) 衆議院議員となり、政界に入り、デモクラシーの具現と議会政治の建設に精魂を打ち込む。
  衆議院議員在職中、国務大臣・内務大臣等を歴任する。
1949年(昭和24) 予算委員長となる。
1955年(昭和30) 外務委員長となる。アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席する。
1956年(昭和31) 英国上下両院議長招待に対し、衆参両院議員団長として訪英する。
  日ソ共同宣言等特別委員長・国連第11回総会日本政府代表顧問となる。
1961年(昭和36)7月から8月 台湾・沖縄を視察。
1961年(昭和36)12月 英領フィジー島・濠州ニュージーランドを歴訪する。
1962年(昭和37)12月2日 病気のため亡くなる。
1963年(昭和38)1月13日 三郷村にて村民葬を行う。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編 安曇野市図書館

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