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清沢 清志|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052212 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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清沢 清志
きよさわ きよし

演劇家。吉行エイスケらと新興芸術運動をすると共に、自宅を人々に開放し、「安曇野モダニズム」の拠点として大きな影響を与えた。

生年月日 1905年(明治38)
没年月日 1959年(昭和34)
関連地域 穂高(神田町)
職業・肩書 文芸家・演劇家
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(文芸)

 

経歴

穂高神田町に生れました。1921年(大正10)12月、自宅の製糸工場の寄宿舎で、金子洋文作「老船夫」と農民一揆を舞台化したアイルランドの翻訳劇一幕を上演、穂高演劇協会の幕開けとなりました。演劇協会発足以来の上演脚本250本、公演は県下各地500回に達しました。1925年(大正14)、友人らとモダニズムの先駆的雑誌「売恥醜文」を発行しました。1929年(昭和4)には、松本の劇団青服劇場に協力して、建国座でルメルテンの「坑夫」外を上演しました。また、劇団向日葵座と共演し、松竹座で公演を持ちました。1930年(昭和5)に、第二次信州詩人連盟講演会を行いました。1932年(昭和7)には、清沢宅にて、「すうぶにいるの会」が発足されました。終戦後は、松本平や伊那谷等で、積極的に移動公演に取り組みました。

略歴譜

1905年(明治38) 0歳 穂高神田町に生れる。
1921年(大正10)12月   金子洋文作「老船夫」と農民一揆を舞台化したアイルランドの翻訳劇一幕を上演、穂高演劇協会の幕開けとなる。
1925年(大正14)   友人等とモダニズムの先駆的雑誌「売恥醜文」を発行する。
1929年(昭和4)   松本の劇団青服劇場に協力して、建国座でルメルテンの「坑夫」外を上演する。
  劇団向日葵座と共演し、松竹座で公演を持つ。
1930年(昭和5)   第二次信州詩人連盟講演会を行う。
1932年(昭和7)   清沢宅にて、「すうぶにいるの会」が発足される。
1933年(昭和8)6月   町内同好の人々と同人雑誌「草塔」を発行する。
1933年(昭和8)   同人雑誌「草塔」のメンバーによる「藤村会」をつくり、郷土文芸の振興に貢献する。
  終戦後、松本平や伊那谷等で、積極的に移動公演に取り組む。
1952年(昭和27)   夏期の自主公演と秋の穂高町文化祭の年2回発表する。
1959年(昭和34)   亡くなる。

参考文献

穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館
安曇野の美術 丸山楽雲/編 安曇野市立図書館
写真:穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編(原板)  

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