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清沢 洌|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052213 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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清沢 洌
きよさわ きよし

昭和初期の自由主義転落論争で自由主義擁護の旗手。太平洋戦争中、戦後を見越し日本外交史研究所を設立。外交史辞典を編纂し、「暗黒日記」を書き残す。

生年月日 1890年(明治23)
没年月日 1945年(昭和20)5月11日
関連地域 穂高(青木花見)
職業・肩書 国際主義自由主義の代表論者・実業家
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 社会(報道出版)

 

経歴

穂高青木花見に生れました。尋常高等小学校在学中に、望月直弥の影響を受け、研成義塾に学びました。1906年(明治39)に渡米し、シアトルからタコマへ移り、勤労しながら初等学校に通学しました。シアトルの新聞社「北米時事」タコマ支社主任となり、討論会・演説会等を催し、またシアトル旭新聞に寄稿もしました。1914年(大正3)、三大邦字新聞の一つであるサンフランシスコの「新世界」に編集長として招聘(しょうへい)されました。1918年(大正7)、実業家を志して帰国し、横浜の管川貿易商会に勤務しました。1921年(大正10)、東京中外新報社外務部長、1927年(昭和2)に朝日新聞社企画次長、報知新聞論説委員として活躍し、退社後、自由人として各雑誌・新聞に執筆しました。1943年(昭和18)、日本外交史研究所を開設して、所長となりました。1954年(昭和29)、遺稿「暗黒日記」が発刊されました。

略歴譜

1890年(明治23) 0歳 穂高青木花見に生れる。
1906年(明治39)   渡米し、シアトルからタコマへ移り、勤労しながら初等学校に通学する。
  新聞社「北米時事」タコマ支社主任となり討論会・演説会等を催し、シアトル旭新聞に寄稿、シアトル文壇にも顔を出す。
1914年(大正3)   三大邦字新聞の一つであるサンフランシスコの「新世界」に編集長として招聘される。
1918年(大正7)   実業家を志して帰国し、横浜の管川貿易商会に勤務する。
1919年(大正8)   管川貿易商会の米国視察員としてサンフランシスコの「新世界」に赴く。
1921年(大正10)   東京中外新報社に入社し、外報部長となる。
1927年(昭和2)   朝日新聞企画次長に抜擢され、中央公論等にも寄稿して評論家としての名声を高める。
  報知新聞論説委員となり活躍し、退社後、自由人として各雑誌・新聞に執筆する。
1943年(昭和18)   芦田均と日本外交史研究所を開設して、その所長となる。
1945年(昭和20)5月11日 55歳 病気のため亡くなる。
1954年(昭和29)   「暗黒日記」が発刊される。

参考文献

南安曇郡誌第三巻下 南安曇郡誌改訂編纂会/編  安曇野市立図書館
穂高町誌 穂高町誌編纂委員会/編 安曇野市立図書館

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