西沢 明花|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052214 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
西沢 明花
にしざわ めいか
山岳画家。研成義塾に学び、碌山の影響を受けて画家となった。
生年月日 | 1883年(明治16) |
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没年月日 | 1939年(昭和14) |
関連地域 | 穂高(矢原) |
職業・肩書 | 日本画家 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(芸術) |
経歴
穂高矢原に生まれ、本名は弥平といいました。研成義塾を卒業後は、キリスト教徒として絵画に力を入れました。当時、帰国した荻原碌山の感化を受けて、画家になることを決意しました。以降は、上京して帝展委員の広瀬東畝に入門し、日本画を学びました。明花は、特にアルプスを愛し、山の神秘なまでに深遠で偉大な姿の表現に努め、上高地をテーマに文展に出品しました。晩年は、本田日生師と親交を深め、法華経に心の安らぎを求め、師との親交もあって、穂高有明富田の日蓮宗道場妙教寺の合天井絵を作成しました。1939年(昭和14)7月8日、燕岳頂上で高山病にかかり、死去。
略歴譜
1883年(明治16) | 穂高矢原に生まれる。本名は弥平という。 |
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研成義塾に通う。 | |
卒業後は、敬虔なるキリスト教徒として、画業に精進する。 | |
荻原碌山の感化を受け、画家を志す。 | |
上京して帝展委員の広瀬東畝に入門し、日本画を学ぶ。 | |
アルプスを愛し、山の神秘なまでに深遠で、偉大な姿の表現に努め、上高地をテーマに文展に出品する。 | |
晩年は、本田日生師と親交を深め、法華経に心の安らぎを求める。 | |
穂高有明富田の日蓮宗道場妙教寺の合天井絵を作成する。 | |
1939年(昭和14) | 燕岳頂上で高山病にかかり、死去。 |
中村不折の筆による記念碑が建てられる。 |
参考文献
穂高町誌 | 穂高町誌編纂委員会/編 | 安曇野市図書館 |
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安曇野の美術 | 丸山楽雲/編 | 安曇野市図書館 |
1993穂高町出身の芸術家総合遺作展 | 総合遺作展実行委員会/編 |