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青柳  さだ|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052216 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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青柳  さだ
あおやぎ さだ

大衆サービス旅館の経営者。上京し、明治末に本郷湯島に「信濃館」、大震災後、上野駅前「ふじ屋旅館」を経営、繁盛させた。

生年月日 1878年(明治11)
没年月日 1960年(昭和35)
関連地域 堀金(田尻)
職業・肩書 旅館経営者
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 経済(経済)

 

経歴

堀金田尻に生れました。小学校を卒業後に上京し、小石川白山町の東洋大学の近くで下宿業を営みました。その後、本郷湯島で旅館「信濃館」を開業経営しました。1923年(大正12)に関東大地震で被災し、直後に上野駅前に、「ふじや旅館」を建築開業しました。1948年(昭和23)、夫が急逝し、夫の遺業を整理して、専心旅館の経営に当り、株式会社に組織を改め、ふじ屋旅館の代表取締役となって、内容外観の一新に努めました。ふじ屋旅館は、都内有数の旅館として、国鉄推薦・交通公社指定旅館となり、大衆サービス旅館として繁昌を極めました。「人間はいつでもあると思うな」を処生訓として、信念をもって経営に努め、ふじ屋旅館の経営を成功させました。

略歴譜

1878年(明治11) 0歳 堀金田尻に生れる。
    小学校を卒業後に上京し、小石川白山町の東洋大学の近くで下宿業を営む。
1905年(明治38)頃   本郷湯島で旅館「信濃館」を開業経営する。
1923年(大正12)   関東大地震で被災し、直後に、上野駅前に「ふじや旅館」を建築開業する。
    夫は事業欲に燃え、北海道開拓事業・群馬県伊香保の温泉旅館経営・松本市渚で第一電気株式会社創立をした。
1948年(昭和23)   夫が急逝し、夫の遺業を整理して専心旅館の経営に当る。
    株式会社に組織を改め、ふじ屋旅館の代表取締役となって、内容外観の一新に努める。
    上野駅前旅館として東北本線を利用する宿泊者を中心に、郷里を始め多方面からの修学旅行団体客の宿泊旅館として賑う。
    ふじ屋旅館が都内有数の旅館として、国鉄推薦・交通公社指定旅館となり、大衆サービス旅館として繁昌を極める。  
    人情に厚く、人の面倒見もよく、ふじ屋の主人として多くの人々に慕われる。
    「人間はいつでもあると思うな」を処生訓として信念をもって経営に努め、ふじ屋旅館を隆昌に導く。
1960年(昭和35) 82歳 亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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