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青柳 直樹|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052218 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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青柳 直樹
あおやぎ なおき

俳人。新聞等に投稿し、多くの仲間と句会を楽しみ、句集「初明」を出版する。

生年月日 1885年(明治18)
没年月日 1973年(昭和48)1月
関連地域 堀金(上堀)
職業・肩書 俳人
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(文芸)

 

経歴

堀金上堀に生れ、残雨と号しました。松本中学校(現深志高等学校)を卒業して上京、農学の大家横井時敬の門を訪ね勉学に励むとともに、俳句を始めました。1907年(明治40)に、信濃日報に短歌と俳句を投稿したのを始めとして、信濃民報・長野新聞・信濃毎日新聞等に、次々と発表しました。また、幼少の頃から山好きで、中房や白骨の湯を基点として山々に登り、スケッチをしたり、上高地の嘉門次の家に泊まって句作にふけったりしました。1909年(明治42)には、浅間の上原三川や小石川の若山牧水宅を訪ねて、短歌にも熱を入れました。親友臼井元茂と長野の往生寺山で、同好の人々と交流し、その後、ひとりで八王子の西恩方村案下に山舎を建て、知人友人を招待して山の生活を楽しみました。1948年(昭和23)、堀金句会が生れ、毎月多くの仲間と句会を楽しみました。1970年(昭和45)に句集「初明」を出版しました。1973年(昭和48)1月、88歳で亡くなりました。

略歴譜

1885年(明治18) 0歳 堀金上堀に生れる。残雨と号する。
    松本中学校を卒業して上京、農学の大家横井時敬の門を訪ね勉学に励む。この頃から俳句を始める。
1907年(明治40)   信濃日報に短歌と俳句を投稿したのを始めとして、信濃民報・長野新聞・信濃毎日新聞等に次々と発表する。
1908年(明治41)   堀金小学校で、8年間教鞭(きょうべん)を執る。
    幼少の頃から山好きで、中房や白骨の湯から山々に登り、スケッチをしたり、上高地明神の嘉門次の家で句作にふけったりする。
1909年(明治42)   浅間の上原三川や東京小石川の若山牧水宅を訪ねて、短歌にも熱を入れる。
  親友臼井元茂と長野の往生寺山で、同好の人々と交流する。
  元茂が病気となり、ひとりで八王子の西恩方村案下に山舎を建て、知人友人を招待して山の生活を3年程楽しむ。
1947年(昭和22)   2年間、常任学務委員となり、戦後の村の学校教育の振興に尽力する。
1948年(昭和23)   堀金句会が生れ、毎月多くの仲間と句会を楽しむ。
1970年(昭和45)   句集「初明」を出版する。明治・大正・昭和にかけての290句は、各時代の流れを反映し、3代にわたって生きた人の風格を現している。
1973年(昭和48)1月 88歳 老衰のため亡くなる。

参考文献

堀金村誌 堀金村誌編纂委員会・堀金村公民館/編 安曇野市立図書館

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