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斉藤 瀏|安曇野ゆかりの先人たち

記事ID:0052223 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月29日更新

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斉藤 瀏
さいとう りゅう

2.26事件で青年将校達に協力した陸軍少将・歌人。

生年月日 1879年(明治12)
没年月日 1953年(昭和28)7月5日
関連地域 明科(押野)
職業・肩書 歌人
活躍年 昭和時代
ゆかりの分野 文化(文芸)

 

経歴

明科押野で生れました。日露戦争に従軍した後、第七師団参謀として満州に渡りました。1930年(昭和5)に陸軍少将で退役して、東京に住みました。日露戦争の頃に作歌を志し、佐々木信綱の門に入り、短歌を学びました。1939年(昭和14)に歌誌「短歌人」を発行し、全国各地を講演しました。1944年(昭和19)、池田町に夫人と共に疎開して歌話会を持ち、七貴の人々と交流しました。翌年の5月、押野の生家跡へ七貴学校同窓会と六川会が発案者となって歌碑を建て、「わがたつは天のさ霧の中ならず、真日まねくてる大地の上」を刻みました。1948年(昭和23)に長野市へ移り、1953年(昭和28)7月5日、亡くなりました。

略歴譜

1879年(明治12) 0歳 明科押野に生れる。
    日露戦争に従軍した後、第七師団参謀として満州に渡る。
    日露戦争の頃に作歌を志し、佐々木信綱の門に入り、短歌を学ぶ。
1927年(昭和2)   熊本第11旅団長となる。
1928年(昭和3)   済南出兵となる。
1930年(昭和5)   陸軍少将で退役して、東京に住む。
  国政改革の要を強調し、陸軍青年将校と素志を語る。
1939年(昭和14)   歌誌「短歌人」を発行し、全国各地を講演する。
1944年(昭和19)   池田町に夫人と共に疎開して歌話会を持ち、七貴の人々と交流する。
1945年(昭和20)5月   押野の生家跡へ七貴学校同窓会と六川会が発案者となって、歌碑を建てる。
1948年(昭和23)   長野市へ移る。
1953年(昭和28)7月5日 74歳 亡くなる。

参考文献

明科町史 明科町史編纂会/編 安曇野市立図書館
長野県歴史人物大辞典 郷土出版/発行 安曇野市立図書館

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