斉藤 瀏|安曇野ゆかりの先人たち
記事ID:0052223 印刷用ページを表示する 掲載日:2025年1月27日更新
斎藤 瀏
さいとう りゅう
二・二六事件で皇道派の青年将校に協力した陸軍軍人。歌人としても知られる。
生年月日 | 1879年(明治12) |
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没年月日 | 1953年(昭和28)7月5日 |
関連地域 | 明科(押野) |
職業・肩書 | 軍人・歌人 |
活躍年 | 昭和時代 |
ゆかりの分野 | 文化(文芸) |
経歴
松本藩の士族であった三宅逸平次の四男として、明科押野で生まれました。旧制松本中学校卒業後、漢学者斎藤順の養嗣子になります。日露戦争従軍後、第七師団参謀として満州に渡りました。1930年(昭和5)に陸軍少将で退役しますが、二・二六事件を起こした陸軍皇道派の青年将校と親しかったため、事件翌年の1937年(昭和12)、叛乱幇助罪により禁錮刑に服しました。和歌の道は日露戦争の頃に志しており、佐佐木信綱の門下で学んでいます。1939年(昭和14)に歌誌「短歌人」を発行し、全国各地を講演しました。1944年(昭和19)、池田町に夫人とともに疎開して歌話会を持ち、七貴の人々と交流しました。1948年(昭和23)に長野市へ移り、1953年(昭和28)7月5日、に逝去。押野の生家跡に建てられた歌碑には、「わがたつは天のさ霧の中ならず、真日まねくてる大地の上」と刻まれています。なお、娘に歌人の斎藤史がいます。
略歴譜
1879年(明治12) | 明科押野に生れる。 | |
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日露戦争従軍後、第七師団参謀として満州に渡る。 | ||
日露戦争の頃に作歌を志し、佐佐木信綱の門に入り、短歌を学ぶ。 | ||
1927年(昭和2) | 熊本第11旅団長となる。 | |
1928年(昭和3) | 済南出兵に従軍する。 | |
1930年(昭和5) | 陸軍少将で退役して、東京に住む。 | |
国政改革の要を強調し、陸軍青年将校と素志を語る。 | ||
1939年(昭和14) | 歌誌「短歌人」を発行し、全国各地を講演する。 | |
1944年(昭和19) | 池田町に夫人と共に疎開して歌話会を持ち、七貴の人々と交流する。 | |
1945年(昭和20)5月 | 押野の生家跡へ七貴学校同窓会と六川会が発案者となって、歌碑を建てる。 | |
1948年(昭和23) | 長野市へ移る。 | |
1953年(昭和28)7月5日 | 74歳で死去。 |
参考文献
明科町史 | 明科町史編纂会/編 | 安曇野市立図書館 |
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長野県歴史人物大辞典 | 郷土出版/発行 | 安曇野市立図書館 |